学ぶこと、教えること

おはようございます。

近畿地方も梅雨に入ったようです、昨日は一日中雨、そんな中でも研修生の皆さんは元気です。明日の昼前まで不慣れの中、懸命に取り組んでくれることでしょう。
不慣れな寺での謙虚でありながら真摯に毅然と立ち向かっている態度で実社会の中でもお仕事に携わってくれればと願っています。
私は毎朝祈りを日課としています、毎日毎日新鮮な気持ちとなり気が充実します。祈りは実践であり、学びでもあります。
祈りは漠然とは祈れないものです、学びも同じ事が言えます。漠然とでは続けられません、明快な目標意識があってのことですし、そのことでまた喜びを体感してもいるからです。
ですから祈りや学びを続けている人と続けていない人の差が次第次第に大きくなることは至極当たり前のことでもあるのです。
人は「知ることに喜びを感じます」。又それ以上に「得ることに喜びを感じるのです」。
知ることの喜びは「揺るぎない信念となり」、得る喜びは「実践行動の力、パワーとなる」のです。
この二つの喜びは確かな目標を持つことで祈り学ぶからこそ得られるものなのです。
「学びて然(しか)る後に足らざるを知り、教えて然る後に困(くる)しむを知る」(礼記
意は「学ぶことによって自分に不足しているものがわかってくる。だから、学ぶことには終局がない。
人から学ぶよりも、人に教えるほうが二倍も三倍もの労力を必要とする。人に対してまちがったことを教えるわけにはいかないから、時間をかけて勉強もし、準備もする。それで十分だということはありえない。たえず自分の未熟さを思い知らされる羽目になる。」
全くこの通りです。学びは己の「足らざるを知る」こととなり、「為すことが無尽蔵と」なるのです。
また教えることで味わう「苦しみをバネにでき」て、いっそう「勉強に対するモチベーションが高まる」のです。
「足らざるを知る」ことも「困しみを知る」ことも、自分を向上させる大きな動機付けとなるのです。
人生も会社も祈り学びを持たなければ、学びから得られる足らざるを満たす喜びも無く、また教えの困しみを解決する充実感も得られず、「茫然自失の人生と為す」しかないのです。
足らずも、困しみも無い人生などはあり得ません。
ならば自身の人生の充実を図るため、祈ること学ぶことで「為すことが出来る喜びが得られる」楽しみ多い人生と為すべきでありましょう。
今日も祈り学び新たな意識と為して楽しんで一日を送りましょう。明日は「にんげん学」東京講座です、東京地区の皆さん無尽蔵の学びをご一緒しましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌