姑息にならない

おはようございます。

今朝は愛宕寺、下関です。明日は愛宕寺の「月例・幸福開運護摩祈願祭」、午前10時からです、是非お参りください、そしてご利益をいただいてください。
昨日の宇治は朝から蒸し暑く梅雨特有の雨、そんな中お昼から車中の人となり下関へ、やはり蒸し暑い、愚痴を言っても始まりませんので、雨のち晴れと考えた昨日でした。
祈りはいいですよ、信じることは素晴らしい。心に迷いを持たない。人生ウロウロしない。
心華寺も愛宕寺も自由な信仰の寺です、何も束縛するものはありません、そんな中でご利益を沢山いただいておられる方を見ますと、一筋の方です。
一筋の気持ちが何事にも対する気持ちの基本となっているからです。いわゆる迷わない、そのような姿、在り方に人は素直にすがすがしさを感じ、ご神仏はご利益をくださるのです。
しかし中には迷った信心をしておられる方もあります。あっちの寺、こっちの寺と、ウロウロです、さも信じているような言葉を私に発するのですが、行動がそうではない。
このような方は仏様が何も言わないからといっても、多くの人が見ておりますから、言葉で何と言おうが信用されず、ご神仏もご利益をくださらないのです。
「姑息にならない」。
「細人(さいじん)の人を愛するや姑息(こそく)を以てす」(礼記)。
細人は小人と同じ意です、君子の反対で、つまらぬ人間という意味です。「姑息」は一時しのぎで当面をとりつくろうことです。
いわゆる言葉を弄(ろう)する人間です。弄するとは「言い放し」、言っても行動しない人です。言葉では人のためと言っているのですが、行動は自分が評価されたいと考えている。
又教えを聞いているようで何も聞いておらず、聞いていても自分の都合のよいように解釈している。
この句には対句があります。
「君子の人を愛するや徳を以てし、細人の人を愛するや姑息を以てす」。
これで見ますと、人を愛するにも二種類の愛し方があるということです。「徳を以てす」とは、自分の全人格をもってするということであるということです。相手のためにしてあげるにしても、本質的な面に対する配慮を忘れないということです。
人を愛すとは理屈を超えて相手のために何でもしてあげたいという強い願いを伴うものです。
細人の場合は、してやることが姑息の域を出ない、やってやってる、してあげているという意識です。口先やその場しのぎの言葉を発するだけで誠実さがないということです。
これは愛の深さの違いというよりも、人間のレベルが違っているのかもしれません。
何事も一途さが誠意の行動となるのです。
あっちにも、こっちにもいい顔をして何か良いことないかな、などと安直とも、安易とも、軽率とも考えることができずに行動する人が「姑息の人」です、ただいい顔がしたい。
慈悲深い仏様はウロウロするような人にでもご利益をあげたいとは思っても、じっとしていませんからあげようがないのです。
ましてや人様は「あっちでもいい顔、こっちでもいい顔したい」そのような言動をしている人は先ず信用しないのが人情で、不信感を持つだけなのです。
皆様のご家族の幸せを祈る真摯なお顔を拝見できることを明日は楽しみにしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌