習う

おはようございます。

昨日朝9時前の新幹線に乗って宇治に帰ってきました、やはり学校が始まったせいでしょう乗客の様子が変わってツアーのお客さんが増えご婦人の小グループが結構ありお子様とは違った賑やかさです。
京都に降り立ちましたら又残暑が身体にまといつくようでもう少しの辛抱のようです。
新幹線に乗っているときは本を読んでいるか寝ているかのどちらかです。時にはパソコンに向かっているときもありますがこれはまぁ希です。
いつも考えることですがやはり時間は大事にしなければいけません、時間は何人に対しても平等だからです。
若い頃のように体力に任せて睡眠時間を削って勉強し、修業するという訳にもいかなくなりましたのでしっかりと時間を決めて集中するようにしております。
そのためにも「習う」ということがやはり一番だと最近はつくづく思うのであります。
「習う」。
この習うというのは「時々」という意味ではなく、「いつも、常に」ということであります。
この習うと言うことでの代表は論語、学而第一の冒頭に出てくる言葉です。最初に出ているということは「このようにあって欲しいと念じたため」でありましょう。
「子曰く、学びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや。云々」、この語に出会ったときの感動は今でも忘れません、意は「学問をして、その学んだところを機会ある毎に復習し練習して行くと、学んだところがおのずから真の知識として我が身に体得されて来る、これはまたなんと愉快なことではなかろうか。」ということです。
知って終わり、知識として終わるのではない、ということが私には非常に勇気を与えてくれたのです。
先日の八風の話ではありませんが、いろいろな評価にさらされているのが日常です。しかし試験のためや評価のためという一過性で人生が決まるというのではありません。
学びは自分のためです、繰り返し繰り返し学び修練することで身につく、これほど愉快なことはないのです。
分からないままにして進み同じ悩みをくり返す人生よりも、体得する喜びを歩むべきでありましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌