修養の態度

おはようございます。

書き込みを終えてから新幹線に乗り京都へ帰る予定です。
懸命に学んだり、人の話を聞いたりしながらなかなかに進歩せず、伸び悩んでいる人を見かけます。そのような人を見ますと論語、第十四、憲問篇の最後の条を思い起こします。
「修養」。
「闕党(けっとう)の童子(どうじ)、命(めい)を将(おこの)う。或(あ)る人之(これ)を問(と)うて曰(いわ)く、益(えき)する者与(ものか)。子曰く、吾(わ)れ其(そ)の位(くらい)に居(い)るを見る也(なり)。其の先生と並(なら)び行くを見る也(なり)。益を求(もと)むる者に非(あら)ざる也(なり)。速成(そくせい)を欲(ほっ)する者也。」
意は「闕党(郷党の名。恐らくは孔子の郷里の闕里(けつり)であろう)の一未成年者が、人々から命令をうけては、何かと仕事のとりもちをしていた。それを見たなにがしが、修養のために益を得ようとしている者でしょうか、と質問した。
これに対して孔子は、自分がつくづく彼の起居動作を見ていると、彼は常に大人の就くべき場所に坐っている。又先輩の人と歩く場合も、肩を並べて歩いている。(元来、年若い者には定まった坐席はなく、隅坐(ぐうざ)といって部屋の隅におるべきものであり、又父と同年輩の人と歩く場合は後ろに従い、兄と同年輩の人と歩く場合には雁行(がんこう)するのが礼であって、この童子の態度はすべてその礼に従わない。)
こんな点から考えると、彼は決して修養のために益を求めようとしている者とは認めがたい。むしろ一日でも早く成人の位地に就きたがる質である、と批評した」。
熱心に学んだり、人の話を聞きはするのですが、この話のように、修養のため人格を豊かにするために学んでいない人は「人格を高めることが出来ない」のです。逆に人格を「自ら貶めている」のです。
知れば一人前だと「錯覚、思い違いをして」、教えていただいたとの感謝やお礼、尊敬の気持ちがなく、行動は「非礼であり」ますと、周囲の人はその態度に敏感に反応して、チャンスを与えなくなるのです。
本人は何でも知っていますので、何でも出来るように思ってはいるのですが、いかんせん礼儀がない、故に行動を認めてはもらえないのです。
頭のよい人でこのようにもったいない行動をしている人が多々見受けます。そしてそのような人は「なんでや?」と社会を疑ってしまうことが残念でならないのです。
このような意識は誰にでもある意識です注意したいものです。修養は生涯のもの、一時的なものではない事も知るべきです。そうでなければ常の態度にならないのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌