祈りは敬

おはようございます。

心華寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」ご参拝ありがとうございました。連休にもかかわらず、お参りを優先していただいた、ご神仏は皆様の心を喜んでおられます。さらなるお加護が得られることでありましょう。
第一日曜日にお参りにこられない方は前日か後日に必ずお参りになられます、このことも嬉しいことの一つです。
決めたことを必ず行う、これも人生の在り方としては大切です。何事も決めなければできないのが道理です。決めないから物事が進んでいかないのでは、という方を、よくお見受けします。決めていないにもかかわらず、文句を言っている、不思議といえば不思議なことです。
「祈りは敬」。
尊敬の念の無い人とは余りお付き合いはしたくないものです。これは皆さんが思うところではないでしょうか。
教えは教えであり、教えを行動にしてこそ形となり、現実となるものです。ですから教えそのものの時点で何も得られておらず、「感動あるのみ」です。
この教えに感動することこそ、「敬する原点」でもあります。教えや道理は長い間、先人が苦労して分析科学して今日に伝わり、私たちが活用するに至っております。
物が物として、何故に、そのような形になるのか、人間が人間として、どうしてなったのか、などということは未だにわかっておりません。
しかし、形と為し、私たちが生きることに欠かせない存在、このようなことを「尊」と古人は称したのです。人知を越えた世界がある、人知を越えているものの存在がある、ということです。この現実を「尊い」とした先人の知恵には頭が下がります。
そこで現実に出会った人や、物事は「理の外にある、計らいの外にある」と捉えることが大事なのです。ですから先ず「尊敬の念」で出会うことが大切なのです。
尊敬の念を以て出会うと言うことは、「大切に出会う」ことです。人は大切にされて、嬉しくない人はおりません。大切にするということは、「その人、そのもの」を大切にする、敬うということです。
人と比べてではなく、その人そのものを大切にすること。
出会いから、いろいろなことを教わり、知ることができる、これほどの喜びはないのです。それを「敬しない」ようであっては、何も生まれることはなく、生まれるとすれば「苦しみ」であります。
尊敬の念がないということは、あらゆる可能性をも自ら否定しているということでもあるのです。
未来を思う、夢を思う、これらは祈りです。この祈りさえも、出会いがあったればこそであります。祈りは敬、尊敬の念を以て出会いをすることで豊かな未来が開かれるのです。
逆に打算、欲得で出会いを重ねることは、己自身で自身を否定する人生を歩むこととなるのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌