認める

おはようございます。

「にんげん学」小倉講座ご出席の皆さんありがとうございました。皆さんとご一緒できることを幸せに思っています。人生は孤独より、道連れがあったほうが楽しいものです。
お釈迦様も「人生は苦だ」と素直に悟りました。学ぶことや、修練することは強くなることではなく、他の存在を「認めること」、また「己の器を大きくすること」であり、「心胆を練り上げる」ことです。
「認める」。
人生の苦は「認められないところから」始まります。何で、どうして、という「現実の否定が苦しみを生む」のです。
物事を知っても人生は楽にはならないのです、では知ることなど必要ないのではないかという疑問が出るとは思いますが、やはり知ることは大事です。
ですが、知ることで「楽になるという考えが誤っている」ことに気づかねばなりません、そこで「覚り」、目覚めが必要なのです。
物を知ると言うことから得られるものは、何かある物を作るといった場合に、知らない者よりも楽だという程度であるのです。
「人生そのものが楽になるということではない」のです。
働いて仕事を為し、お金を得る、物を得る、その上に生活が成り立つということは古来から当たり前の真理です。
物を人様より沢山得ようとすれば、「沢山人より働かなければなりませんし」、「人様の役に立たなければいけません」、これは当然のことで、楽をして何もせずに得られる物などは何一つ無いのです。
働くことを喜び、働けることを喜び、そのことを確かにすればこそ、それを認めればこそ多くの仲間、道連れ、同行の人が得られ(類は友を呼ぶ)て真実楽しい人生と化すのです。
苦しいことを嘆くのは、認められない、現実を受け入れられないからです。認められない結果、心が落ち着かず、夜も寝れず、悶々として、世を嘆き、人を恨み、社会を怨むような日々とせねばならなくなるのです。
認められないと嘆く人は、人を認めない、与えられた仕事を天命と考え喜んで働かず、せっかく目の前に仕事を与えられながら、否定して、もっと良い仕事はないかと否定しているのです。否定からは何物も得られないのが道理です。
「にんげん学」、「心学」を修すということは、楽をするためではなく、繰り返すことを楽しみ、心胆を練り上げることです。心が座らないから人生に迷いが生じるのです。
到達しなければ得られない、得られなければ幸せになれない、という思い違いをしている人があるとするならば、それは大きな見当違いです。
人間という生き物は、目の前のことに真剣にあれば、そこに歓びを感じるものなのです、その喜びを見て人はあなたを放っておく人はいないはずです。目の前のことに真剣に対して価値を見いだす、掛け買いのない自分が行動している今を認め、働くことほど幸せはないのです。
目の前の一歩を否定して、その先に続くであろう一歩はあり得ないのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌