こころがけ

おはようございます。

昨日の朝6時ちょうどに「小豆島八十八カ所巡礼」に誠澄先達で5名の皆さんが明るく出発しました。
護摩を修し無事を祈り、朝食を済ませ、護摩壇の掃除を始めたころからポツポツと雨が落ちてきました、あいにくの雨、しかしきっといい巡礼ができるだろうとの思いがしておりました。夕方旅館に入った旨報告があり、雨も心配したほどではなく無事一日の旅程通りに済んだとのことでした。
今朝も曇ってはおりますが、さわやかです、きっと一日素晴らしい読経三昧の旅をすることでしょう。
10時からは第二日曜ですので「水子供養祭」、誠澄が留守のため久しぶりにお参りの皆さんとの供養、やはりいいものです。
祈りは「己を律します」、ただ祈るだけでは真の祈りではありません。己を律し反省してこそ「未来が確かとなる」のです。
律するとは、「己を正し行動する」ことです。ですから寺に足を運んでこそ、「律するとなる」のです。毎日、毎週、毎月お参りをなさる方は確かに反省し祈りますから「未来が開かれ繁栄の道が得られる」こととなるのです。
「こころがけ」。
私たちはややもしますと「自分は間違っていない」という思いこみを持っております。これはこれでいいのですが、間違っていない、という思いの底には「人との違いを感じている」、「隔たりを感じている」、「疑問を感じている」という意識があるのではないでしょうか。
間違っていないという思いを持つよりも、「間違わない」ことを確かにして「対人関係においての違和感を解消する」、ためにはやはり「日々のこころがけ」が大事です。
「祈りは己を律すること」と先に書きました。祈りとはただ祈るのではなく、自らが確かに「行動し目標に到達するため」に祈るのです。
故に対人関係に於いては必ず「恥ずかしい」という思いをするときがあります。時に「辱(はずかし)めを忍ぶことに耐える」ということもしなければなりません。
この、耐えることがなければ人格を向上させることは到底無理な話なのです。では耐えるには何が必要なのでしょうか、それが「こころがけ」です。
己を律するために「確かな行動則、確かな目標」がなければ「律する必要性も、耐える必要性もない」のです。そのための「こころがけ」、皆さんはどのような「こころがけをお持ちでしょうか」。
私は「祈り律する」ことを日々「こころがけ」ています。新しい週の始まり、今週も確かに歩んでください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌