執着しない

おはようございます。

陰陽、上下、左右、勝者と敗者、このように二元論的に物を見ていきますと非常に分かりやすいという利点があります。以前、勝ち組、負け組などという言い方がありました。人を説得するときにはこれらの表現は説得力があります。
が、しかしこのような表現をして、社会がどのようになったでしょうか、「不安社会になった」、「不信感を増した社会となった」のです。そこに追い打ちをかけたかのように誤った成果主義が横行している、となると闇でしかありません。
結果を出せない人間は怠けている人間だ、との烙印を押されてしまった。努力して実らない人間は、努力が足りないのだ、という人間否定論まで続出している。
今日の人の誤りは「誤った原理主義に陥っている」ことにあります。
「執着しない」。
人間が余りにも知識偏重、理屈偏重になりますと、どのような人間性となるかといいますと、「人柄が悪くなる」のです。いわゆる「他者を認めない」、「他の価値を認めない」という誤った「原理主義者」となるのです。排他的な人間性、排他的社会となってしまうのです。
論語、子罕第九に「子(し)、四(し)を絶(た)つ。意毋(いな)く、必毋(ひつな)く、固毋(こな)く、我毋(がな)し。」。
意は「孔子は意・必・固・我の四つを棄ててしまったので、従って孔子の行動には、この四つの弊害がなかった。」。
これは門人が孔子の人に対する態度を観察して記述したものです。意とは、億と同じで、先方(相手)がまだその意志を表明しない前に、こちらから気を廻して先方の考えを推し量ること。必とは、事を為す場合に、必ずやり通すときめこむこと。固とは、事を守る場合に、この事は断じてしないと頑固にみずから守ること。
必と固とは、為す場合の悪癖で、言葉にとらわれている状態です。又我とは、すべての事柄につき、己れ中心に考え、己れ中心に動くことであります。
要するに、この四者は共に小人の性行において見るところであり、孔子はこの四者を絶棄したため、その言行において四者の弊害がなかったというのであります。
今日の不孝は、口に出したことは「即実行、即実現」しなければという、強迫観念にとらわれている人が多いことです。
目標を立て、言葉を発し、行動に移す、これは当たり前のことですが、なかなかに実現は難しいことを知っている孔子は、言葉を保つことの重要性は確かにしていても、何が何でもというように、人に対しても、自分に対しても言葉にはとらわれなかったと言うことです。
実現する努力はしても、成らないことも知っていたと言うことです、そしてまた「やり直した」のです。
言葉にとらわれて「自縄自縛の人生としてはならない」のです。言葉の意味にとらわれていますと、視野が狭くなり、己を見るときも人様を見るときも余裕のない人生しか残されなくなるのです。
今月の最終週、言葉を保ちながらも執着せず、常に前進する意識を確かにして、チャレンジする週としましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌