無用の用

はようございます。

「にんげん学」大阪講座ご出席の皆さんありがとうございました。本年の最終講座、学びは心に自由と希望を大きくします。一年12回、回数以上の貴重な日にちの積み重ねでした。
学びを打算で行うのであれば学びへの冒涜であり、人間性の喪失でありましょう。自己を高めることほど崇高なことはないのです。来る年もご一緒に学びましょう、よいお年をお迎えください。
「無用の用」。
先の言葉は「むようのよう又はむゆうのゆう」と読みます。「一見役に立たないように見えるものが実は役に立っている」という意味。老子荘子が説いた思想です。
人生に行き詰まったり、悩み多くしたりする原因の一つが「価値観の偏り」、「固定観念」が考えられます。また「二元的価値観」も考えられます。
私たちの修行の基本は「作務(さむ)」。作務とは掃除、手伝い、裏方の事をいいます。これらの作業はすべて「表に出ることはない裏方」です。この作務の修行期間にいわゆる「三日坊主」で修行を断念する者が出てきます。
こんなことをやっていても、こんなことばっかり等々の愚痴です。そして山を去っていく。この作務をしっかり出来なければ「人間としての器の土台が出来ません」。
これらの修行は何事の修行に於いても「土台、基本となる」のです。修行で大事なこと、人生に大事なことは「何故形となっていくのか」です。「心は無形」です、しかしその「心の中からわき出たものが形となる」のです。「想いの凄さ」です。
毎日毎日変わることのない掃除、手伝い、裏方を素直にやっていますと、「見えてくる」のです。人は「何を欲しているのか」が見えてくるのです。
ところがいわゆる体を通した物事の土台、基本作りを行っていない人は、これらのことが全て「不満にしかならない」のです。
表舞台で活躍している人達の行っていることが見えているからです。しかし表舞台を支えている「何たるかが分かっていない」のです。だから「不足となり不平となり不満となる」。
そろばんが出来ても計算するものがなければ腕の見せ場がない、ことが分かっていない。ただ単に表面だけを見て、「やれば出来るとうそぶいている」のです。
いくら知識を豊富にしたとしてもその知識を発揮するために何が必要なのかを知ることが実は作務であり、「無用の用」という価値観です。
これが役に立つ、これでスキルアップが出来ると学び壁にぶつかってしまうことのないようにするには、専門的な事から少し距離を置き「にんげん学」を学ぶとか、心華寺に来て作務を十日ほど行ってみれば、近視眼にならず、現実がよぉ〜く見えてきます。
一見役に立たないと思えるようなことを実際にやってみないと人間の器は大きくはならないのです。昨今の出社拒否やひきこもりの現実を見ていますと余りにも「役に立つ、立たないという世界に振り回されている」ように見えてしまうのです。
部屋に空間があるからゆったりできるのです、心にも間がなければいけません、間のないことを「間抜け」というではありませんか、心にゆとりが欲しいですね。
明日は「にんげん学」一宮講座、一宮地区の皆さん本年最終の講座、万障繰り合わせてご出席下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌