自分は見えない

おはようございます。

昨日はこの冬一番の寒さ、下関も初雪、お昼前に東京へ向かいます今日の東京の寒さはどうですかね。今夜は「にんげん学」東京講座、ご出席の皆さん防寒対策をしっかりとしておでかけください。
祈る大切さを時々書いています、皆さんに「己を律する」言葉を常に保ってほしいという思いからです。
祈りとは何も特定の神仏に祈ることばかりではなく、自身の何事かの成功、大切な人の安全や無事を祈るのは人としての愛です。祈らないというほうがむしろおかしなものです。
「自分の過ちは見えない」。
朱子が著しました「小学」に「人は至愚なりと雖も、人を責むれば則ち明らかなり。聡明ありと雖も、己を恕すれば則ち昏し」と。意は「いたって愚かな人間でも、他人を責めるときには、欠点がよく見える。ところが聡明な人物でも、自分の過ちに対しては目が見えなくなってしまう」ということです。
天才といわれた朱子ほどの人間でも自分を戒めているのです。昨日も書きましたが自分の過ちには気づきにくいのが一般。人から過ちを「指摘されて気づいても」、それを「改める方がもっとむずかしいのが人間」です。
だからこそ「自分を律する言葉を保つ厳しさが欲しいのです」。しかし厳しさを持てと云ってもこれがなかなか身につかないのがこれまた人間、だからこそ「日々唱和、祈る」ことで知らず知らず「血肉にする、身につける」ことが大事です。
身についていますと何か律しなければならない状況に遇いますと、自然に無理をせずとも悪い状況を避けることに「反応する」のです。
人間関係の基本、対人関係の基本は何でしょう。それは「自分に厳しく、人には寛容に」です。自分を律する厳しさに欠けていたのでは「何をやっても大成せず」、事の成就はなりません。
なぜ自分に厳しく、人には寛容さが必要なのでしょう。それは「相手に身構えさせないため」です。自分に厳しく人に寛容であれば自然「自身から暖気が放たれるようになり」。そして人様は安心して「心を開き話をしてくれる」こととなり「役立つことが出来る」のです。
今夜は「にんげん学」東京講座。肌で感じる不安な状況を避ける感性を研ぎ澄ますためにも会場でお待ちしております、最終講座ですので皆さんのお顔を是非拝見したいと願っています。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌