当たり前だからこそ

おはようございます。

僧になり色々な喜びがあります。一番はやはり「人の情け」をいつも感じられることです。情けを感じられることほど嬉しいことはありません。
親のため、子供のため、友人知人のため、社員のため会社のため等々皆さんが人様のことを祈る愛情です。
親の子を思う愛は無意識、そこには何の打算も計らいもない、ひたすら子供のため。
では子供の方はどうでしょう?、子供は親の愛情を受けるのが当たり前、これも自然なこと、よくいわれるように、子供を持ってようやく親の愛情を知る、親のありがたみが分かる、ということです。
「当たり前だからこそ気づくべき」。
一番身近なこの当たり前のことを気づくことができれば人生良い方に回転します。何とも思っていなかった、思いもつかなかったことに思い至ることができれば「感謝、喜びを多くする」からです。
して貰って当たり前ではないのです。「していただいている」という喜びを感じなければ「人様にはしてあげられ」ません。人間はそんなに賢いものではなく、賢くなるには「気づき、人情の機微を知ること」が大事です。
知識は多くなくとも、学校へ行っていなくとも、上に立っていく人は大勢います。それらの人は「愛情、人情の機微が豊か」だからです。何故豊かなのでしょう。それは「していただいたことを当たり前と受け取らずに」、「思いやりからだと気づいたから」です。
自分がして貰ったことで「人様の喜びを知った」のです。
お金も、物も子供の時誰が与えてくれたのでしょう、親です。与えて貰った喜びを心から知り、親の情けを心底から知ったなら「与える喜びに目覚める」はずです。
いろいろな思いの中から与えてくれたのです。それを「機微」といいます。親は食う物も食わず、着る物も着ず、子供の不憫さを考え、自分が無理をしてでも与えたのです。
親になり、上に立ち不足を言っている自分がいるのであれば、それは今まで沢山の愛情を受けた事を当たり前と思っているからです。当たり前と思っているから愛情を受けていても、人情の機微を知ることもできず、社会が何を求めているのか、人様が何を喜ぶのかの気づきも発想もできず、不足感ばかりとなる、事を行っても機微が分からず成功しないのです。
護摩木に書かれてある願いを読み人の愛情の素晴らしさを感じ、涙して護摩を焚いています。皆さんの温かい愛情が通じ必ずや祈願が成就することでしょう、確信しています。
午前10時から最後の護摩。どうぞお参り下さい、すこし渇きを覚えてきました。水に感謝です。断って始めて恩を知る、いつまでも愚か者のようです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌