低く

おはようございます。

愛宕寺「八千枚護摩供」三日間お参りお手伝いありがとうございました。全国から「添え護摩祈願」をいただき確かにお祈りいたしました。
皆様の祈りは天の宝庫に貯えられ、事ある毎に皆様の頭上に「力」となり降りそそぎます。年末年始は殊更に感謝の手をお合わせ下さい、素晴らしい年末と年始となります。
「低く」。
道理として物は低いところに落ちてきます。心の世界で言いますと「尊敬する心、謙虚」であることです。「教えに頭を垂れる、人に礼儀を尽くす」、己を低くすることです。
卑下することではありません。己を低くすることのできるの人は「誇り、確かなプライドを持っている」人です。「尊い己が会う人は貴い人だ」と考えて「出会える人」です。「我(が)と誇りを混同している人」は頭を下げられません。下げられないと言うより、下風に立ちたくない、だからチャンスを目の前にしても物にできないのです。
相手の地位や身分、利を確かに聞いてからでなければ頭を下げないという姿勢を「不遜(ふそん・へりくだる気持ちがない、威張っていること)」といいます。不遜な人生、生き様からは長いお付き合いという世界は生まれないのです。
「実れば稔るほど頭を垂れる稲穂かな」という俗諺もあります。しかしなかなかこうはいかないもので、頭を低くする、一歩譲るということが以外と難しいのです。難しいからこそ頭を低く、辞を低く一歩譲ることができれば、礼儀正しい者、礼儀正しい人として相手に受け入れられるのです。
積極的に主体性を持って「堂々と低く」です。頭を下げること一つでも「堂々として爽やかに見える人もあれば、卑屈に見える人も」あり、何故違いが出るかと言いますと、やはり「日頃の姿勢、生き様」です。
敬虔(けいけん)に御仏に頭を下げ感謝の手を合わせる生活をしているか、否かです。「自力だ自分の力だとうそぶいている人」であっては不遜な態度しか取れないのです。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、水を飲まなければ渇くこと知っていながら、心が波立つ、知っていても心模様はそのときにならないと分からないのが心、だからこそ温冷自知、常の学びを実践することの大事を永年行じても思い知らされています。
知ったからといって何事も平穏無事とは行きません。知ったとしても楽にはならず、知るということは「対処方法を確かにでき」たということだけです。
「知れば楽になるという誤った考えをしてはなりません」。そのためにも真摯に敬虔に神仏に頭を垂れ学ぶことです。
知識でも技術でも何事でも「心」が生かします。先端の枝葉(対人関係)、花や実(結果、成果)は「心という幹から生長している」ことを知らねばなりません。
心に波だったときに如何に正道を歩むかどうかで己の真価がきまることをまたもや思い知りました。修行、学びは一生です。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌