懐古

おはようございます。

僧になってもう40年を過ぎ、先日八千枚の護摩を修ししみじみと昔のことをふりかえって見ました。
何でこの世界に入ったのだろうと。動機付けははっきりしていますが、その気にさせた深い意識が先日の行の後で分かったような気持ちになったのです。
「懐古」。
「弱いことを認めたくなかったから」ではないかということです。今さらなんだ、と思われるかも知れません。
学校って何でこんなにも教科があり、何で全ての教科で良い点数をとらなければならないのだろうといつも疑問に思っていました。思っていたということは成績が悪かったからで人並みであったら思いもしなかったことでしょう。
子供として悪い子供でもなく、普通の子供。しかし事勉強のことになると叱られる。そしていつも思うことは、何で人よりも成績が悪ければ叱られるのかという疑問。63才も終わりになった頃に思い出しました。
お読みになっておられる皆さんは、その年になって何を今さら、と思うかも知れません「初心を忘れたくない」が正直な気持ちです。
そんな疑問が無意識の中にあったからこそ伝教大師の「願文(がんもん)」という大師19才の時の声明文を読み感動したのではという思いです。
自分が人より劣っていたからこそ「自分の確立を思い至った」。逃げたのではなく、自分の人生に挑戦、チャレンジしたのだと。
「自分が知りたいことを知ろうとした」、今さらながら、このような思いに至ったのです。何故かと言いますと、何んでこんな苦しい行をしているのだろうと自分で決めておきながら自分自身に対して改めて疑問を持ったからです。
叡山に入る前の自分が社会をどのように見ていたのだろうと考えてみたのです。そうして思い至ったのが「自分で決めたハードルを必ず乗り越える」でした。
人生は勝ち負けではないが、「自分に負けたくない」と考えていた。
人が決めたハードルで悩み、そこから逃げ出したのではなく、伝教大師が自分の意志で歩み出した姿を願文に読み、自分の生き様をそこに重ねて見たのです。
自分で決めたことは必ずやり遂げる。そうでなければただの反発であり異端。
しかし考えてみますと、社会が認めるハードルを乗り越える方が人生の評価は得られます。自分一人が決めたハードルを乗り越えると言うことは、社会認知が少なく、努力をしたとしても社会性がなければ人はその努力は認めてはくれないことも知りました。これも当然です。
社会性ということが如何に大切かと言うことです。御仏の慈悲の偉大さを又一つ行をして実感しました。独り善がりでは何事もだめであるということです。
今年も皆さんのお陰で行ができました。ありがとうございます。明晩は本年最後の「にんげん学」小倉講座、最終講座です是非ご出席下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌