道連れ

おはようございます。

心華寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」お参りいただきありがとうございます。人生「共にする」ということはやはり嬉しいですね、ご一緒に祈りお経を唱和する、それだけで勇気百倍です。
道連れがないことほど寂しいことはありません。心豊かにしていろいろな場面で共に歩む人、道連れを多くしましょう。
「道連れ」。
先日も「全て我が師なり」というこを書きました。人生共に歩み、道連れができますと「感化、影響を受ける」のです。誰しもいい人と出会いたいと考え、望んでもいるはずです。いい人との出会いを果たすには「先ず自分が確かな高い目標、志を持つことが大事」です。正しい思想もなく、それに基づいた行動もなく、いい人との出会いを望んでも、それは叶うはずもないからです。
何かを思い行動して事がならなかった場合、「ただ単に悔しがったとしても堕落するだけで」、何故「悔しいのかの根源を考え」、悔しいという感情より「理知が先立ち行動しなければ」事はなるはずもなく、「友も得られない」のです。
論語、述而第七、二一条に「子曰く、三人行くときは、必ず我が師有り。其の善なる者を擇(えら)びて之に従い、其の善からざる者は之を改む。」と。
意は「孔子言う、三人の人が同じ道を歩いて行く、その極めて少人数の、しかも日常の行動の中にも、必ず自分の師とすべき道を求め得られるものである。三人の中、一人はおのれ、他の二人は甲と乙として、甲が善であり、乙が不善であるとすれば、二人の中、善なる甲を択んでこれに従い、不善なる乙を見ては、我が身に反省して改めて行けば、そこに師はおのずから求められる。」。
日常の中で確かに心を失わず、自分を高めようとの「気性、気概を確かにしていれば」身近なところに師が存在することに気づくのです。それを「遠くに求めてウロウロしている」人があります。高い志を持ち日常に出会う人を大切にすれば自身が確かに高められつつ、人との出会いを多くしながら発展発達するのが人生です。
共に在る人、道連れとなってくださる人を大切に出来ないようでは志も達せられないのです。
身近な人を大切にせずに在れば「人は離れ」、「争っていては争いの一生」。それよりも身近な人を師とし、反省し歩むことで「階段を一歩ずつ昇っていくことになる」のです。
師とするにしても、我が身に反省するにしても、善、不善の両者を差別しているのではなく、「友を敬っているからこそ」師と為し、反省もできるのです。
今夜は「にんげん学」京都講座、会場でお待ち致しております。自身の心をしっかりと学びましょう。心学は自分を「映す鏡」です。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌