己を正す

おはようございます。

昨日の続きのようにもなりますが最近言葉が気になります。色々な人の言葉を聞いて、言葉の使い方を違えているのではないかということです。
「己を正す」。
言葉は「己を正すことにあり」、「人を責めるためにある」のではありません。テレビや新聞の記事を見て思いますのがこの「責める」ことです。テレビの画面に登場する大人といわれる人達の「非難批評の言葉が」気になります。
言葉とは「人を責めるためにあるのだ」と一般の人が思うようになっても仕方のない現象かもしれません。社会に幼稚な大人が目立ってきたのはそれが原因なのでしょうか。己を棚に上げて人を責める。その挙げ句一層混迷を招いている。
社会が悪くなったのは「○○のせい」、このような事態を起こしたのは「××のせい」等々、もちろんこのことは「当たらずといえども遠からず」ですが、では正しいことを言っていながら何故一向に社会が良くならないのでしょう、混迷を深めていくばかりなのはなぜなのでしょう。
それは「覚悟、自覚の欠落」です。どのような覚悟かといいますと「己を磨く」こと、いつも書いていますが大人とは「己を修める人」を大人というのです。「己を修める覚悟のできている人」を大人というのです。己を正すことの出来ない人間の言葉を受け入れる道理はないのです。
私たちは出来ることとできないことを確かにしているはずです。しかし「出来ないことを素直に認められる人が多くいるかといえばはなはだ?疑問」です。先ずこの簡単な事実認識をできない人は大人ではないのです。
大人は「分別」できるのです。そして分別せず「一体として考えられる」のが大人です。いわゆる部分が全体であり、全体が部分であることを把握していることです。
孟子は「善責めるなかれ」と教えました。善を責めるのは「己にすること」で他人にすることではないのです。他人に善を責めますと「心が離れていく・反発する」からです。大人は「人材を生かす」ことを自覚すべきです。出来ない人間をいくら責めたとしても一向に改善はしないのです、現実の問題をもっと複雑にしてしまうだけです。
大人は己を「言葉によって修め、正す」のです。それによって人は「感化される」のです。このことは「迂遠(まわりくどい)」のように思われますが、教育とは「影響力こそが第一」なのです。社会の雰囲気、風潮が大事だということです。
社員、国民をどのような人間性、国民性に育てるかの目標、意志を確かにしてこそ会社、国家の経営の大本である人材を育成できるのです。
人間とは素晴らしいものですが、「小さな親切大きな迷惑」という俗諺があるように、幼稚な面もあることを我々は知るべきです。人から言われて正すことの出来る達人は数少ないのです。
言葉は人を責めるものではなく、己を正すことにあるのだという責任、覚悟、自覚できる私たちでありたいものです。
人を責めることの一番の弊害は「進化が止まる」ことにあります。人を責めることは「慢心の極み」でもあり、「人間性が歪む」ことであり、「堕落の道へまっしぐら」であることを知らなければいけません。
今日は日曜ですので静かに反省し己を正すことを日々怠らずにしているかを確かめてみてください。人を責めれば責めるほど心が濁ってくるのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌
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