三省

おはようございます。

「にんげん学」小倉講座ご出席ありがとうございます。学んだことは直ぐに身につくことはありません。学んで「ハッと気づいたこと」を日々心がけて行うことで身につくのです、このことをお忘れ無く心してお過ごし下さい。
「三省」。
論語学而第1、3条に「曾子(そうじ)曰く、吾(わ)れ日(ひ)に三(み)たび吾(わ)が身(み)を省(かえり)みる。人(ひと)の為(ため)に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざる乎(か)。朋友(ほうゆう)と交(まじ)わりて信(しん)ならざる乎(か)。習(なら)わざるを伝(つと)うる乎(か)。」。
意は「曾子言う、自分は毎日、自分が行ったことについて何回となく反省する。その反省の事項は、第一に、人の相談相手となって考え計ってやる際に誠心を尽くさなかったのではないか、第二に、朋友と交わっておる際に信義を尽くさなかったのではないか、第三に、まだ十分の実習もなくて、我が物となり切っておらないものを、口先だけで人に伝え教えはしなかったかという、三つの点についてである。」。
曾子は性質魯鈍(ろどん)であったといわれています。しかし孜々(しし)怠(おこた)らず、ついによく孔子の真の道統(どうとう)(儒教の伝統)を伝えたといわれています。それも全くこの三省の工夫によったのです。
三省とは、幾度となく反省することです。忠は、口と心との一致することともいい、或いは中心であるともいいますが、要するに人のまことです。忠君の忠もまたこの義であり。信は、人言であり、言葉にいつわりのないこと。最後の節は、「伝えられて習はざるか」と読み、師から伝えられた事に対し、時に之を習うという努力を日々払わなかったのではないかとの意に解釈する説もあります。
若い頃に師から教えられたことを魯鈍であった私もいつも反復し、「どうだろう、どうだろう」と反省しながら行動をしていました。
人間はあることでは敏であっても、あることでは鈍であるものです。曾子のようにありたいと私は常々思うのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌
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