わかりやすくない

おはようございます。

今夜は「にんげん学」小倉講座、小倉講座では「論語」を読んでいます。古典を読むことはいいですね、何がいいのかと申しますと、一つのテーマを通して「あらゆるケース、人物を登場させ教えている」こと、また物事をハッキリと示してはいるのですが、「わかりやすくない」ことです。
この、「わかりやすくない、考えなければならない」ことが「人間の味を醸し出し、器量を大きくする」ことになるのです。世の学びの書は非常に分かりやすく書いてあります。ですから「あ、わかった」となり、人間性が熟成されるには、ほど遠いのです。
売れ筋の本は、いわゆる「分かったつもりになる書物が多い」ということです。
「わかりやすくないことも大事」。
分かりやすい書物ばかりを読んでいますと、昨日も書きましたが、人の心を察する、気を配ること等々の必要性を感じません、いわゆる「相手を知る、観察する」などということすら「感じない、感じられない」のです。
「知っているから出来るという妄想に固まる」のです「敵を知り己を知れば百千危うからずという思考も必要なくなる」。ですから「相手が何を望んでいるのか、何を求めているのか」すら「尋ねようとしない」、「情報を情報と感じない」のです。対人関係の基本中の基本も出来なくなる。
わかりやすい書物を使って社内で勉強している会社の落ち込む問題は、「こんなに良い勉強をしているのに何故結果が出ないのだ」という「互いの不信感、上司が部下を責める」ということです。
わかりやすい勉強をした結果、「心を察する、相手の気持ちを察する」という対人関係の基本中の基本を失ってしまった、以前も書きましたが、「正しい言葉を発しながら争っている状態」。人間は「成長もするが、退化もする」ことをお忘れありませんように。
古典を学ぶには学ぶ理由があるのです。「真理は不変」、それを「使う人の人柄によって結果に大きな差が出る」ことを学んでいるのです。あまりにも、わかりやすい学びをしていますと、一見論理的のように錯覚しますが、相手が考えを持っている人間が相手であることを忘れている故、考えが直線的になって、「相手云々」などということすら気づかなくなるのです。
「上に方策あれば、下に対策あり」などという言葉すら知らないのです。正しい言葉で責めるばかりでは部下は「できていない、できていない」と責められているとばかりうけとめ、表面的(面従腹背)にだけ言うことを聞いている風をなす対策を講じるのです。
今夜は、考える「にんげん学」小倉講座です。わかりにくい講座ですが、自分の為になる講座です。いわゆる人間性が知らず知らず豊かになる講座?かな?。会場でお待ち致しております。
勉強会が楽しいのはもちろんですが、その後の懇親会の般若湯が又何とも言えない味なのです。今夜の般若湯の肴は何でしょうか?、今から楽しみです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。