子孫として

おはようございます。

心華寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」並びに「盆・施餓鬼法要」ご参拝ありがとうございます、気持ちの良い汗でした。ご遠方からお申し込みいただきました皆様、確かに供養致しました、数日後に「供養之証」をおおくりいたします、お納め下さい。
「会うは別れの始めなり」と理屈では分かっていましても人情ある私たちに、いざ別れが現実となりますと受け容れて理解することができないのが現実です。今日があり、明日があり、昨日がある。
過去、現在、未来を確かに生きてきた私たちにはやはり、亡くなっても明日のあることを疑う余地はないのです。来世はやはりあるのです。それを確かにしている皆さんと昨日はご一緒にご先祖様の「施餓鬼供養」をできたことは、今日を確かに生きてこそ明日があるのだ、そして未来があるのだということを改めて確信できました。
「子孫として」。
広島に長崎に原爆が投下され毎年哀しみが新たにしていながら、さらにまた福島で原子力による悲劇が起こりました。昨日は残念ながら犠牲になられました皆様のご冥福をお祈りしました。
先の東日本大震災で被害に遭いました皆様の秩序正しい姿が世界中の人の感動を呼びました。被災者の方々は今でも苦しみを受けています、そのような中しっかりと礼儀正しく暮らしていることに、日本人の文化、誇りを感じます。
それはどのような「思想から」来ているのでしょうか。それは「ご先祖様の恥にならないように、ご先祖様を辱めないように」という無意識の日本人としての思想生命、誇り、矜持があるのではないかと考えています。
世間に出たら「後ろ指を指されないように、世間様に笑われないように、家の恥をさらさないように」等々の思想です。それが長年風土の中で育まれてきたのです。
ところが同じ日本人でありながらこのような文化を持たなくなった地域があります。「永田町村」です。後ろ指を指されても平気、ご先祖様の恥になるようなことをしても平気、ご先祖様を辱めても平気というように、被災された一般の人達は「社会人として恥じないように」という生き様を示していても、上に立つ人達は、小さな村の中で生きているように感じるのは私一人ではないのではないでしょうか。
昨日皆さんとご一緒に亡くなられたご先祖様に感謝の祈りを捧げているときふと思うところでした。
子孫としてご先祖様を辱めないように在りたいものです。お盆の月にご家族でこのようなお話しをするのもいかがでしょうか。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。