律する

おはようございます。

日を一日ずつ追っていますと早いですね、光陰矢のごとし時人を待たずともいいます。時は無常であり、無常であるゆえに助かるときも、9月も一週間、今夜は「にんげん学」大阪講座、学びは己を律することができます、心が飛び跳ねることを許さず、日々為すことの課題が見えてくる、それを克服する喜び、楽しいものです。
自分が目指しているにもかかわらず人様はその姿を見て「生き様」と捉えてくれる、法、学びに従うことはありがたいことです。
自分を高めようとするだけで喜びが湧いてくる、19歳の時からこのような生き方をしてきました。ただひたすら自分を磨き高めるために。
「律する」。
目標とは「道標」であり、「標(しるべ)」です。修行とは法を体得することで理とするのです。頭で分かった、知識としたくらいでは理を知ったことにはならず、体得してこそです。
どんなに傍目から見て困難な状況があったとしても困難とは感じず、問題、課題が出来たことに逆に喜びと思うのです。体得してこそ理であり、それを継続し続ける者が求道者です。ですから私は生涯この喜びを喜びとしたいと考えていますから、求道心を失わずに果てしない道を極めたいと思っています。
道に沿って歩むことだけをしていただけですが、己を律することにもなりました。道に従うことはありがたいことです。目標に向かって歩んで来ただけでいろいろな人や物事と出会ったのですから。
目標は「人知れず立てるから力となり」、「継続も可能となる」のです。そして「生き様ともなる」。評価を求めたり、位の上がるのを願ったりでは、道を歩むことが不純となり、結果社会への疑問、不平不満を持つに至り、精進することが出来ずに、途中で人生を投げ出すことになるのです。
真摯に目標に向かって錬磨すれば、自身の「器量を見きる(自覚できる)、分を知る」ことが出来るようになります。いわゆる無理をしない、今に見合った修行、鍛錬、仕事をするのです。ところが修練、学びの何たるかを知らず体を通して学んでいない者は、「己の器を過信し無理をして大言壮語し挑戦し、恥をかくという結果を招く」のです。器を見切ることが出来たときに「己の器量を大きくする」のです。己を律するとはこのようなことをいうのです。口先だけの恥の知らない人間にはならないことです。
今夜は「にんげん学」大阪講座、大阪地区の皆さん会場でお待ち致しております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。