何のために

おはようございます。

昨日から徳島の鳴門に心華寺の信者さんと来ております。私を入れて4名、4名と聞けば白い玉を打つためと直ぐ分かってしまいますが、同じ年の方ばかりで私以外の方は皆さんゴルフのお上手な方ばかりです。しかし下手な私が居ればこそみんなが楽しいのだ、とうそぶいております。(止まっているボールを打つ、全て自分の責任と言うことがこれまた楽しい。人生そのもです。)。
「何のために」。
以前勝ち組とか負け組などということがよく言われていました。私から言わせれば負け組が一番だと思っています。勝ち組などと言われて、しんどい人生を送るよりは淡々と生きることのほうがよほど人間らしく楽しいのではないでしょうか。
人から期待されたり、信頼されたりするのは悪いことではありません。しかし期待されたり、信頼されなければ人生がないと考えるのはおかしな事で、目の前の勝ち負けなどにこだわっているようでは、小さくせこい人生となってしまいます。世の中には上には上がいるものであり、小さな世界で上に立っているなどという浅はかな考えが「馬鹿な発言をする政治家を生む」のです。
先日の東京の勉強会で学びましたが、論語、憲問第14に「子曰く、君子(くんし)にして仁(じん)ならざる者有(ものあ)り。未(いま)だ小人(しょうじん)にして仁(じん)なる者有(ものあ)らざる也。」
意は「孔子言う、君子といわれるような人でも、一時の過ちによって仁道から外れる人もありうる。しかしこれとは反対に、小人といわれる人で、仁道に叶った行いをなす人は有ったためしがない。」
学ぶということは、己のためにするものであって、人の為にするものではありません。言を換えれば己を高めるために行うということです。人に知られるために行っていますから、馬鹿な発言をするのです。まさしく小人の学をしているのです。
君子の学は勝ち負けの学ではなく、己の人格向上のため、そして仁の道を歩むためであります。学問の本質を知らない人間を小人というのです。
自分のことしか考えないような人間は勝った負けたで人生をつまらないものにしてしまうのです。
勝った者も何れは負けるときがあり、負けていた者も勝つときがあるのです。このように見ていけば一時の勝者は自惚れず、一時の敗者は僻(ひが)むことをしないのが人生では大事です。勝者が自惚れ、敗者が僻む、愚かな事です。ではナイスチョットを今日も一日楽しみます。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。