境地

おはようございます。

昨日は九州から一番の新幹線で帰り毎月の定期検診、なかなか結果がよく満足しています。京都五山の一つ東福寺近くの病院に通っていますので、診察を終えてから東福寺の静かな境内でお弁当を広げ仏殿と法堂を観ながら修業時代の思いを少し、帰りの電車の中であまりにも良いお天気でしたので下りるとき弁当を買おうとひらめいたのです、良いアイデアでした。お弁当屋さんの弁当の種類を見ましたら、旬の「松茸弁当」が直ぐ目に入り早速購入、ちょっとしたご褒美かな?。
弁当を広げている人は出入りの庭師の方ばかり私の姿を見て今時変わった人やなぁ〜と思っているような目で見ていました。しかし爽やかな風が吹き渡る中での弁当は美味しかったですよ〜、ざまぁ〜見ろという美味しさ、ごちそうさまでした、とお釈迦様にお礼を。修業時代旅をして一人食べたことも思い出しました。ひたすら修行の旅、青春でしたね〜。今は老春(私の造語)。
人生を確立しようとして学びや修練を始めたのはいいが、こんなはずではなかったと思えるような苦手なものと直面するときがあります。しかし修行上や仕事上での本分であれば、しないで済ませるというわけにはいきません、避けられないということです。
嫌いなものを好きになる理法などはありません、無理というものです。しかし本分ですから本分を避ければせっかく志を立てた人生を捨てなければいけません。そうはしたくない、逃げたくないのが人情。
「境地」。
せっかくやり始めたのですから、嫌でもやめたくない、続けたいと私も思ったときがあります。そのようなときどうして乗り越えたかといいますと。「嫌だという考えを捨てた、好きになろうという考えも捨てた、好きなものをやりたいという考えも捨てた」のです。そして「本分を人様より少し長く勉強、修行をした」のです。
そうして続けたところ「理屈ではない」、理屈で考える以外に人には「境地」というものがあったのです、「境地を得た」のです。境地とは「ある段階に達した心の状態」をいいます。どのような心かといいますと、「避けられないのなら、避けない」という「覚悟が出来た」ということです。
「形だけの学び、形だけの修行」を他の修行僧よりも少し長めに継続しました。そうしましたらいつの間にか「本気になり」真実の「真似(まね)=学ぶ」をしていたのです。そうすることであるとき「ある境地に目覚めた」のです。
苦手や嫌いなものを好きになる「妙法はありません」。しかし避けられないと覚悟をして学び修行を継続すれば「理屈で考える以上のものが悟れるときもあるのだ」と、実感したのです。
何事かを始めて途中で投げ出す人の多くは「理屈で考えて上達しようとして行き詰まり止めてしまう」人が多いのではないでしょうか。それは「人よりもうまくとか、上に行きたいとか考えて足が止まる」のではないでしょうか。
好きや嫌いなどという面倒なことを考えず、まして人よりもうまくなどとも考えず、ひたすら続けることで無心になれるのです。無心になった時は楽しいものです。
好きでないものを苦にならなくなることを「克己心」といいます。これは「今日の己が昨日の己に克つことをいう」のです。この境地になるためには「続けることも大事」なのです。私はこのようにして今日まで来ました。自分で決めた人生でも嫌なものや苦手なものに出会うのです。そのときは天命と思って学び、修行を続けることです。
私はこの境地になってから物事も人様も嫌いになったことはありません。好きがなければ嫌いもないのです。「要は何事も心底嫌いになってはならない」のです。嫌う気持ちからは何物も生まれないのです。
「理屈を超えた境地というものがある」ということを知って下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。