達士

おはようございます。

昨日は秋晴れの素晴らしい日曜。そんな中叙勲のお祝いに招かれ出席しました。お山から下山後すぐお付き合いをいただき山出しの私に社会のことをいろいろと教えていただいた方で、7才年上の師兄とも思える大恩ある方、「にんげん学」京都講座にもご出席いただいております。
「達士」。
「たっし」と上の字は読みます。いわゆる「達人」のことです。孔子はこの達士のことを論語、顔淵第12、第20条に、少し長くなりますが敢えて引用します。
「子張問う、士、如何なれば斯れ之を達と謂う可き。子曰く、何ぞや、爾の所謂達なる者は、子張對えて曰く、邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞ゆ。子曰く、是れ聞なり。達に非ず。夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色、仁を取りて行いは違う。之に居りて疑わず。邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞ゆ。」
意は「子張が、士たるものは、どのようであれば、これを達士(今の言葉の達人)ということが出来るか、と質問した。(恐らく子張はみずから達士を以て任じておったのであろう。)これに対して孔子は、即答することをせず、まず、なんじのいう達士とは一体いかなるものをいうのか、と反問した。すると子張は、諸侯の国につかえた場合にも、その名声が世の人に称せられ、卿大夫の家につかえても、その名声が称せられるような人間、これが私の申す達士であります、と答えた。これを聞いて孔子は、それは聞士(ぶんし)(評判男)であって、達士ではない。そもそも達士なる者は、まず本性が正直であると共に、(正直な者はややもすると融通がきかなくなりがちであるが、そのような事はなく)、よくその時の宜しきに従って移り行くことを好む円通の道を知り、又人の言葉を聞き分け、人の顔色を見抜く聡明さを持ち、用意周到に十分思慮をめぐらすが、しかも謙虚な態度を以て人にへりくだる。かくの如くであれば、諸侯の国につかえた場合にも必ず万事についてうまく行き、大夫の家につかえた場合も必ず万事についてうまく行く。これが達士なるものの姿である。これに対して聞士という者は、顔色態度の上ではいかにも仁者らしい様子を取り守っているが、実際の行いそのものはそれと違っている。要するに、彼にはいつわりがある。しかもそのいつわりの生活をしながら、それを不思議とも思わず、これが処世の道なりと心得ている。かかる人物は、諸侯の国につかえた場合も、大夫の家につかえた場合も、必ず人の評判を得る。これが聞士であるが、しかし本質的には、聞士と達士と雲泥の相違がある、と教えた。」。
長い文章を引いたのは褒章をうけられましたK氏は孔子の説いた達士に近い方であると感じているからです。
今夜は「にんげん学」京都講座、会場でお待ち致しております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。