修行

おはようございます。

先日11日の早朝誠澄の「懺悔練行」に4人(男性3名、女性1名)の方が随喜されました。今朝も男女1名ずつお二人の方が随喜されております。素晴らしいですね、人の姿を見て感じて動く、感動すれば何の苦もなく人生を全うし得るパワーを得ます。又その時その時の目的を達成し人生の階段を目標に向かい一つずつ登ることができていくのです。
感動、楽しみを感じればこそ一つのことを生涯にわたって続けられるからです。
「修行」。
修行は日々行うこと、では修行とは何故行うのでしょう。心を「意識したことに執着しないようにする」また「外物に奪われない」ためです。自身の心を内外の世界に奪われてしまうことで「己を見失うから」です。心を少しでも「内外の世界に惑わされないようにする」ために行じるのです。
いわゆる「無心になる修行」が「行」です。
知識を得て、技術も高めていながらいざ実践となると上手く行かない、ということはよくあることです。このようなことは誰でも経験しているのではないでしょうか。
それは心が何物かに奪われ、そこで「思考が停止してしまう」からです。「こう」しなければ、という「こう」に執われ。「あれ」もしなければ、という「あれ」に心がつかまり、目の前のことに確かな対応ができなくなり、結果考えていたようにならずに終わるのです。
このような仕儀にならないように、無心に事を運び達成できるような心理状態にするのが「行」です。
行にも坐禅、歩く、お経を唱える、写経をする等々、動くこと又静かにすること動静を入り混ぜて、相手を己にだけ絞って行うのです。そして現実の生活の中で体感し、それを踏まえて又行じるということを繰り返すのです。
いずれにしましても修練は生涯怠ることなく続けることが大事です。今夜は「にんげん学」京都講座、こちらも継続しましょう。「人間対応学」です。対応如何で人生を大きく左右するからです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。