逆境

おはようございます。

三日間の断食断水、八千本の護摩木を焚き上げ水を一口運んだだけで生気がみなぎってきます。どんなに苦しいときでも自分がその存在に気づかずとも神は直ぐ側にいるのだという教えを実感するときです。
人生は順境の時もあれば逆境の時も。逆境とは考えられない時期、目標を決めただけで何も得ていないにもかかわらず順境であり、順風満帆のような感じもしているのが私たちです。
「逆境であるとき」。
日々の読経、お経には真理が書かれてあり、継続することで不動の心が確立される。何故お経が素晴らしいのでしょう。それは先にも書きましたが真理が説かれてあるからです。
人は何かを始めようとしたとき、未だ何も得ていないにもかかわらず仲間や同僚、また最愛の人と気勢をあげ、励まし合うことが出来ます。何も得ていないにもかかわらずです。
しかし時間が経ちますと思わしくない逆境に遭うときも。そのような情況になったときこそ頼りは同志、仲間、愛する家族でもあります。
しかし人は励ますことを知ってはいても、目標を失ったとき「かける言葉を失い」、「寄り添う」ことが苦手のようです。皆さんはどのように思われますか?。
良いときは励ましてはくれますが、思わしくないとき寄り添えない、叱咤ばかりでは孤独になるばかりです。方法を見失ったときは茫然自失するのが人でもあります。
そのようなとき経文が頭の中に蘇るのです。「妙法蓮華経如来寿量品第十六」の「寿量品偈」に。
衆生見劫盡 衆生は劫尽きて
 大火所焼時 大火に焼かるると見る時も
 我此土安穏 我が此の土は安穏にして
 天人常住満 天人常に充満せり」
何ごとかを成し遂げようとして始めてはみたものの、上手く行かないときがあります。仲間や同僚、家族は期待が高かっただけに思わず「不満と不平を口にしてしまうのです」、しかしそれらは罪ではありません。何故という疑問が思わず不平となるのです。業火に焼かれているのです。
上手く行かなかったときの励まし方を知らないのです。新たな手立てがわからないからこそ愚痴となる。だからこそ私たちは良いときばかりの友であってはならないことも知るべきです。学び続けること、気性を養うことの大事がここにあるのです。
苦しいとき辛いときに上の経文を思い出します。何ごとがあっても常に「安穏な世界があり、天人が充満している、一人ではない」。水を一口しただけで生気が蘇る、何があったとしてもお経を唱えていれば「寄り添って下さっている」ことを自覚する。
だからこそ自身が人様の苦難や、逆境に遭ったときには「寄り添おう」という思いを日々強くできる。共に歩む、直接的なことは何もして上げられないかもしれないが、そこに居てくれるというだけで日々救われている。だからこそ日々楽しく希望を失わずに在ることができている、感謝であり、ありがたいという言葉しか見当たらないのです。
今夜は今年最後の「にんげん学」講座、一年の締めが毎年小倉講座です。九州地区の皆さん一年の総括のためにもご出席下さい。
今週は一年納めの週、しっかりと過ごし新しい年を迎える準備を致しましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。