教養

おはようございます。

「にんげん学」小倉最終講座ご出席の皆さん一年ありがとうございます。終わりよければすべてよしですね、昨夜も元気に講座が出来たことが「すべてよし」喜びです。お大事にお過ごしの上新年をお迎えください。来年もよろしくお願い致します。
「にんげん学」の素晴らしさは「善悪が書かれてある」ことです。そして「何々をしなさい」というような「命令形でない」ことです。人として「どうあるべきか」を指し示しているところに千年の歴史があるのです。
人間は主体性で歩んでいます。主体性で将来が個々人の違いが出ることは間違いがありません、その現実を見たとき私たちは素直に「生き方を選択するはずです」「お手本を探すはずです」。人生の生き方に解答はありませんが、やはり「こうありたい」と人間としては考えるのではないでしょうか。
「こうありたい」と憧れる人が大勢出てきますし、「このようであってはならない」という戒めとなるのが「にんげん学」です。そして知識学ではなく「教養学」です。
「教養」。
教養とはどのようなものかと問われますと難しいのですが、精神を豊かにすることに間違いはありませんし「生涯円満な人格を養い育てていく努力をすること」です。養うということは何ごとに於いても終わりのない世界です。
とかく専門的な知識や特定の職業に限定されやすいのが私たちの精神です。それを広く学問、芸術、宗教などに接して全面的に発達させ、「全体的、調和的人間になることが教養である」のです。
社会の中では教えたり教えられたり、導いたり導かれたりです。満ちたと思えば欠けてしまう、咲けば散り、頂上に立ったと想えば下りなければいけない、この世は諸行無常、一時として同じ様相はないのです。
そのような真実の中で精神が凝り固まっているようではお話にならないのです。専門学の上に、柔軟性があって円満な人格を養い育てる努力が必要なのです。凝滞を戒めるのが「にんげん学」です。
少ない専門知識でありながらひけらかし凝り固まって停滞しているようでは、せっかくの能力は社会の損失。教えを養うとは優劣、上下、遅速、多少という対立の世界にとらわれず、すべてを包み込みんで「どうあるべきか」を現実のものとして「社会に役立てる人材を育成」する在り方です。
比較して「人を侮ったり、軽んじたりする」ようであっては、そのような人を誰も親しみませんし、人間的魅力にも欠けます。愛情、情愛があってこそリーダーとなり、親しまれる存在ともなるのです。来る年から皆さんどうぞ教養学である「にんげん学」をご一緒下さい。
よい人材をと望みながら何も手を尽くさない、知識は豊富でも人に活かす、活かされる人材を養わないというのでは「宝の持ち腐れとなる」のです。先ずご自身から教養を養い人材を見出し社会に活力を生みましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。