きれいにして

おはようございます。

昨日は故郷の小学校の同級生Wさんご夫妻が約束を違えずお出でくださいました、今年で6回目、ありがたいことです。
そこに七つの貌を持つ八幡浜の心華寺御用達日本一ミカン農家のOさんも寺の近くにあります日本一の清涼飲料メーカーの研修指導を終え一昨日の「にんげん学」大阪講座に引き続きお友達と共に個人レッスンに訪れてくださいました。
お蔭で盛り上がった賑やかな夕食。夕食なのか般若湯をいただく会なのか、知恵を通り越して何が何だか分からないくらい楽しい一時でした。Wさんご夫妻、Oさんありがとうございます。酒は微酔、花半開を看るという言葉にほど遠い事態と相成り、般若湯は鯨飲、花は満開で散ってしまった感じです???・・・。
鯨飲を反省して話が90度変わりまして、私たちが無心に学ぶことがなぜ大事なのかを「菜根譚(さいこんたん)」から見てみたいと思います。学ぶことはいつも申しますように「行うこと」です。
「きれいにして学ぶ」。
「名誉や利欲という雑念をきれいにさっぱりとぬぐい去って、そこではじめて書物を読み、古の聖賢のことを学ぶことができる。心がきれいでなかったなら、古人の一つの善行を見ると、ひそかに自分の善行にしていまい、古人の一つの善言を聞くと、それを借りて自分の短所を隠す口実にしてしまう。
このようなことでは、わざわざ敵に武器を貸したり、盗人に食糧を与えるようなもので、自分はいっこうに向上しない。」(菜根譚、55条)。
いかがです、この文章、ううぅ〜ん、とうなってしまいませんか?。知識として入ってはいるのだが一向に自分が想っているようなポジションや仕事が得られない、というような悩みをお持ちの皆さんはおられませんか?、
知ったかぶりはしても行動はしない、だから敵に武器を渡してしまうようなものだと、「菜根譚」著者の「洪自誠(こうじせい)」は言うのです。聞いた方は「なるほど」という思いをして学び素直に実戦する、そうすることでどんどん自分の思いを達してしまう。
私は弟子に会話のための会話はするなとよく言います。会話がよく弾むということは私のこれまでの体験では、ほとんど実行しないから言えるのだという思いがあるからです。話す、言うということは自分が行うために言うのであって、行動する気も無く会話をするから争いになったり、依怙地になり自分の意見に執着してしまうことになるのです。
それで、しなくても良い喧嘩となり、せっかく出会った友を失うという愚を犯すことにもなるのです。もちろん、このような人間といくら話しても実が無く、面白味もありませんから、別れた方がいいのかもしれません。
無心にきれいな心で学ぶことが大事ということです。行動するため。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。