挫折

おはようございます。

今晩は「にんげん学」一宮講座、明晩は東京講座と「にんげん学」が続きます。「にんげん学」は「己を見失わない学」、また「ゆったりとした人生を歩む学」ともいえます。
ぼぉ〜としているというのではなく、昨日書きました頭は醒めてはいるが心は温かいということ。なぜかといいますと、己の目標がハッキリしているからです。また喜怒哀楽もハッキリとしているともいえます。何ごとにも過ぎず、大いに人生を謳歌できるということです。
学ぶことがあり、為すべき仕事があり、志がある。そして友がおり、師を持っていることほど幸せはないのです。
「挫折」。
挫折は誰にでも?その質は違ってもあるのではないでしょうか。私も大小いっぱいあります。しかしそれがトラウマになっているかといえば、やはりなっています。先日も苦手ということを書きましたが、苦手は無くなりません、今ではあってもいい、とさえ思っています。
挫折を乗り越えたわけではありませんが、苦しんだからこそ「新たな目標が出来た」といえます。新たな目標といいましても、全く新しいことを行ったわけではなく、比べて比べなくなった、要するに人と競争せず、自分を生きるということに気づいたのです。
人生とは面白いもので「覚悟しますと」自分の劣等感が逆に生きてきます。どこにいても何をやっても一番下でしたので、それまでは人様と比べて上に上にと願っていたのですが、気づいてからは「出来ることで自分を高めることを求めた」のです。
いくら高みを望んでも確かに己を磨くことをしなければ輝きません。「玉磨かざれば光なし」。己に見合った修練をしてこそ磨かれます。
こんな話があります、修行僧が坐禅をしていた姿を見てある坊さんが質問したそうです。何の為に坐禅をしているのですか、と。「仏になるため」と修行僧は答えました。そうしますと質問した坊さんが「石を磨き始めたそうです」。それを見た修行僧は何で石など磨いているのですかと質問したのです。答えは「ダイヤモンドを作るため」、修行僧は「いくら石を磨いてもダイヤモンドにはならないでしょうと」。
私たちは己を磨くことが大事であって、外の世界に心を奪われているようなことをやったっとしても空しい人生をおくることになることを知るべきです。
己を磨く覚悟をして一番下にいるというのは「やることがなくならない」のです、これが不思議です。世間の人は会えばあったで「仕事がない、仕事がない」とぼやくことしきりです。仕事がないのではなく、選んでいる、比べているのではないかと思えなくもないのです。頭で仕事をするのではなく、体でするのであって、そして結果を残す成果を出すことが仕事であるのです。本気の向上心とは頭の先で考えていることではなく、行動してこそです。
向上心があるのかと質問されたら誰でも、ある、と答えるに違いありません、自らに課した事で結果、成果を少しでも出さなければそのような言葉はただの強がりで、己を堕落させるだけとなるのです。
出来ることで己を修め求める生き方をして、指示されたことを敏速に、きれいに行うことを己の心として来ましたら、求めていなかったにも関わらず多くの役割を与えられるようにもなったのです。
ある時の挫折感が今日の「にんげん学」に目ざめさせ、人として己を修めることを生涯としているのです。己を修めることなくして人を治められる道理はないのです。堕落、敗北は己を修めることを忘れたときに生じるのです。
己を修めることに目ざめ、覚悟しますと、日々豊かであり、例え物理的に貧しく、どのような状況の中にあっても、そのようなことは不幸ではないのです。不幸というのは為すべき事がないことをいうのです。
中部地区の皆さん今夜は「にんげん学」一宮講座の会場でお会いしましょう。ブログをお読みいただいている皆さんもどうぞお出かけください。お待ち致しております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。