動じない

おはようございます。

「にんげん学」京都講座ご出席の皆さんありがとうございます。老子の素朴な教え、タオ、道の教えを知れば知るほど安心して人生を過ごせます。何か古くさいことを書きますが、比叡山下山後、心華寺入山時は一人の信者さんもおらず檀家さんもありませんでしたので賽銭も布施もありませんでした。
しかし私には何等生きていくことには不安はありませんでした。「道心の中に衣食有り」という比叡山開祖、伝教大師様の教えがあったからです。道(生成化育するのが道)を歩んでいれば一日を生きていく寝食の場は与えられ、楽しく人生の工夫ができることを純粋に信じ歩んでいたからです。
人生を歩む上に於いてはドシッと落ち着き腰を据えた考え方がなければフラフラする人生とするのは目に見えております。覚悟がなければ現実の動きを落ち着いて判断できず、確かに対処するのは難しいのです。
「動じない」。
諸行無常、動いて止むことの無いのが自然です。動くものと、動かざるものは、どちらに目が行ってしまうかといえば動く物、変化に目がいくのです。しかし変化は変わらないもの、動じないものがあってこそであって、動いてばかりいるようでは大木にならず、成長もしません。
なぜ枝葉を伸ばすのか、なぜ動く物をしっかり見なければ行けないのかが分かっていなければなりません。でなければ周囲の変化を栄養と為し成長することが出来ないからです。
自身が使命感をしっかり自覚し、動じなければ動き変化する物のの中から確かに情報をキャッチして使命を果たすことが出来ないのです。
自分を生かそう、学んだことを社会に問うことができるのだという確かなものを持っていれば、じっくりと動ずることなく実社会の中で己を生かす術が何かがはっきりと見えてくるのです。
自分の中にある創意工夫でなければ実際に力を発揮することは出来ません。人から認知されてから仕事や使命を果たすのではなく、自らの力をどのような中に於いても発揮するのだという動じない己であれば、閉塞感など湧いてこないのです。
誰一人来ない寺の中で、庭を掃くことが己の習練の道、確かに道を自覚し、道のあることに日々感動し、立って半畳、寝て一畳、衣一枚着てさえいればこれ以上の幸せはないと考える日々で、その延長線上に今日があります。
人のお役に立てなければお布施もなく、お経を唱えてくれと頼んでくれる人もいないのが道理であり、そのようなことは百も承知でしたから。日々己を高め習練する道のあることに感動し嬉々として動ぜず歩んできました。
いつしか周囲に共に歩む人が現れまたまた喜びを多くしています。食事を摂ることも道、歩々道場。どこにいてもどこにあっても己を磨く道があります。儲からない、仕事がないなどと嘆いている人がおるとすれば、周囲を見ておらず、世間様にお役に立っている多くの人を確かにお手本とせず、己を磨かず歩んでいることを知るべきです。
昨日の「洋食ぼんじゅーる」さんのお料理はやはり素晴らしいお味でした。写真は「パストラミ」という「ビーフと水菜のサラダ」です。マスターごちそうさまでした。メーンディッシュの「チーズとなすの牛のミルフィーユカツ」も最高でした。皆さん、おまけの懇親会での美味しい料理も味わいください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。