親を敬す

おはようございます。

昨日の朝お勤め前「むかで」が出てきて嬉しくなりました。むかでは毘沙門天様のお使いだからです。きっといいことがあるか、何かでお守りいただける徴候ではないかと喜んでいます。
今夜は「にんげん学」大阪講座、心学は言葉にすれば極々簡単で平凡なことばかりで直ぐにできそうになります。行動するととても難しいものです。しかしこれが出来ていなければ人間としてお粗末な人間となります。だからこそ意識して無意識に行動できるように落とし込む必要があります。
昨日も書いていますが誰しも権力主義者です。どんな位地に在ったとしても力を行使しようとするのが人間の常。その力が権力と取られてしまう人と、リーダーシップと受けとめられる人もおります。このことはやはり普段の対人関係の姿勢による違いで受けとめられ方の違いになって現れるのです。
「親を敬す」。
孔子の説いた孝経(こうきよう)に「親を敬する者は敢(あ)えて人を慢(あなど)らず」とあります。このように日常在る人が権力者とならず、素晴らしいリーダー、人格者となるのではないかと考えます。こうも書かれています。「孝は徳の本なり。教えの由って生ずる所なり」。
道徳とは何も難しいことではなく日常生活を指しています。日常普段の生活の中で身につけていくものであって、道を歩む上に於いて身近な親兄弟に孝養をつくし暮らすことが道徳なのです。社会でもチーム内での和を基本としてこそ向上していくのです。
日常生活での基本は「小学」に「洒掃(さいそう、掃除のこと)、応対(どのように人様に対するかの礼儀)、進退(どのようなときに率先して進み、退き譲るか判断し行動すること)」の三つが折に触れ行動出来ることが基本だということです。洒掃、応対、進退の三つはどの世界に行っても必須要素です。
それがなぜ道徳なのかといいますと。道というものは「一定のものではない」のです。富士のお山に登るにいろいろな登り口があるのと同じです。
親を敬する者はどのような世界にあっても「敬する心を推し広めて他人を愛するものだ」と教えているのです。なぜでしょうか、道徳とは「日常の生活で身についたものだから」です。習慣性が私たちの特質です。習慣は第二の天性と言われているが如くです。尽くすことが出来なければ何事の能力も発揮しようがなく、生かす場所も得られないのです。
孝行しようとする行動からは教えの由って生ずることとなると、これまた言っているのです。目上の人を大切にしよう、周囲の人を大切にしようとすれば自ずから人が困っていることや、喜ぶことを学ぼうとする意欲となるのです。幼少の頃から目上の人や周囲の人の事を考えられないようでは大人になったとしても人様の事などは考えられない我利我利亡者と成り、学ぶことなどするはずもないのです。
学ぼうとするこのような人は権力者とはならず、強いリーダーシップをとるのです。昨今のリーダーに魅力が無いのは画一的で押し付けるような権力をリーダーシップと錯覚している人が多いからではないかと愚考します。
敬する心がなければ誰も動きません。人を動かそうとすれば先ず人を敬し認めることから始めることです。今夜は「にんげん学」大阪講座、会場でお待ちしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。