少にして

おはようございます。

6月も後半に入ります。少年老い易く学成り難し、まったくその通りの言葉であることを実感、あっという間に時間は経ち、少年時代はおぼろげで消えかかっています。
論語、憲問第14、46条に「幼にして孫弟ならず、長じて述ぶることなく、老いて死せず、是を賊と為すと。杖を以て其の脛を叩く。」。
幼なじみの原壌という者に評して言った孔子の言葉で「お前さんは幼年の頃から素直でなく、親の教えに従わなかった、年がいってからも格別取り立てて言うほどのことをしていない、しかも年老いた今日、死ぬこともなくなお人に迷惑をかけている。なんじのようなのを、生を偸(ぬす)む賊というのである、と言って、持っていた杖でその脛を静かに叩いた」という言葉を思います。
幼なじみに対する孔子の温かい愛情の表れ。だれにも相手にされない幼なじみ、自分も相手も老いてしまい、叱りながらも、幼年時代は未来をおもいつつ一緒に遊んだことを思い出したのでしょう。
人生は皆一人歩まなければなりません。大人、年長者のいうことは窮屈で嫌なことではありますが、今になってみればやはり聞いておけば良かった、もっと勉強しておけば良かったと反省するばかりです。
「少にして」。
幕末の儒学者、佐藤一齊は「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。」と一生の在り方は学ぶことにあり、と喝破。
意は「少年時代に学んでおけば壮年になってから役に立ち、何事かを成すことができる。壮年のとき学んでおけば老年になっても気力の衰えることはない。老年になって学んでいれば、知識も一層高くなり、社会の役に立つこともできるから、死後もその名が朽ちることはない」。
この言葉を知ったのは30代でありますが、中学2年から学ぶことの大事を知り、30才までは懸命に学び修行に励み、そして壮年になって少しでも役に立てればとこれまた事上磨練しお参りにこられる方や研修で来山される方が少しずつ増えるに至りました。
50を過ぎまた「にんげん学」講座を各地で開講し、65になった今日でも学んでいます。経験、体験を積む中で学び続けていますとぴんと来ると言いますか、腑に落ちるといいますか、学びは気力を衰えさせません。
専門学を学ぶのはもちろん大事です。それにプラス心学を学べば行き詰まることはありません。昨今言われているようなノイローゼや気鬱の病などには罹らないものです。無用の用という老子の言葉がありますが、ただ単に役に立つであろうと合理的なことばかり学んでいますと、心に遊びが無くなるのです。
価値観が違いつじつまが合わないのが現実です。矛盾を矛盾としてそれを止揚して超える心のパワーがなければ真実のパワーにはならないのです。
至らないことがわかれば学べばいいことなので、ところが心学を修めていない人はたかが己の知識くらいは誰でも理解しているという謙虚さが生まれず、狭い人生としてしまっているのではないでしょうか。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。