贈ること

おはようございます。

私は物をいただくことが大好きです。皆さんもそうではないでしょうか、ただし言われのない物はいただきません。いただく中で最高の喜びはご本尊様から示される道であることは申すまでもありません。いただくことが好きだということは上げることも好きと言うことです、お間違いありませんように。
なぜかと言いますと「思えるから」です。贈る人を考えることが好きなのです。あの人のこと、この人のことと、お顔や消息を思い浮かべるのが好きなのです。祈るときに祈願される方のお顔を思い祈ることも好きです。私は好かれることも好きですが、好きになることが性に合っているようです。このことに気づいたのは50代に入ってからのような気がします。
「贈ること」。
これからお中元の季節ですが、私の一番嫌いなことは「みんながやるからやる」という考えです。これは相手のことを考えているのではなく自分の事だけを考えてやっている行為だからです。このような見栄でいただいてもありがたくも嬉しくもありません。
布施の心に最も反する行為が、周りが、人がやっているから仕方なしに、という行為です。
健全な未来を考えているとしたら決して「みんながやっているからという思考は捨て去るべき」です。
私は人を嫌いになることはありません、そして自ら縁を切ることもしません、もし相手が私を嫌ったら相手が縁を切ってくれるからです。自然消滅のように消えてくれます。喧嘩別れもしたこともありませんし、殴り合ったこともありません(もっとも腕っ節には自信なし)。
御仏にお仕えするようになったのも好きになること仕えることが好きだったということも大きな原因の一つだと思っています。余り見返りを願わないのです。子供の頃貧乏でしたので手伝えばお袋が喜ぶことを知ったからかもしれません。人が喜ぶ姿は嬉しいものです。
これをしたから、あれを返してもらうなどというのは何となくせこいとは思いませんか、私はせこいと感じてしまうのです。
自分が行動したことで見返りを願うなどということはだいたいが美しくないのです。私の行動美学に反します。花は自分を誇りませんし、どんな状況、状態の中でも恨み辛みを言わず美しいのが自然です。武士は食わねど高楊枝(坊主ですが)、こう在るべきでしょう。清貧に安んじる、最高です(食いしん坊のお前さんには無理だろうという声が聞こえそうです?ですね)。
一昨日の夜11時前に電話があり、昨朝に気づいたのですが高校の同級生からでした。東京在住の彼は故郷山形へ帰り私の話題となり電話をくれたのです。何十年も会っていない同級生からの声の贈り物も最高。
今日は24日そして日曜日、愛宕寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」、ご本尊「火防大将軍愛宕大権現」様は皆様を上に載せ支えていながらも何も言いません。だからこそ古来より戦う武士や女性に信仰されたのです。真摯に祈る者を必ず支え願いを聞き届けてくれる広大な慈悲心があるのです。
その偉大さに私は感応し祈るのです。ご一緒に祈りましょう。お祈りして周囲の人に一杯優しい心を贈りましょう。午前10時からです、あいにくの雨ですがお待ちしております。気をつけてお出かけ下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。