学ぶ

おはようございます。

梅雨独特の蒸し暑さの中「にんげん学」東京講座ご出席の皆さんありがとうございます。待ちに待った一日もあっという間に過ぎました。過ぎるからこそ大切にしなければいけません来月もお会いできますこと楽しみにしております。
文化の日本はこの蒸し暑さがあってこそなのでしょう。自然を取り込んだ先人のたくましさ偉大さそして素晴らしさに気づかされたときいつも驚かされます。
自然とは非情なものです、だからこそ平等です。とはわかってはいますが、やはり人の道として考えてしまうのが私たちです。
理性と感情のバランスをよくしませんと、情に棹させば流され、知に働けば角が立つと漱石がいったごとく、心しなければいけません。
この言葉も極であることは間違いが無く、情が湧くのも、知を働かせるのも、事ここに至ったからこそであり、極に至らないように学ぶことがやはり大事なのです。学ぶと云いながらも必要に迫られなければ学ばないのも事実、だからこそ日頃から学ぶ習慣を付けておく必要性大。
「学ぶ」。
私は幼少の頃から愚鈍、今でも変わっていません、が学ぶことの大切さを体感しています。学べば確かに階段を一歩ずつ上れるのです。それが嬉しいことであり学びの凄さです。
論語、衞霊公第15、38条「子曰く、教有(おしえあ)りて類無(るいな)し。」。
意は「孔子言う、人はいかなる種類の人でも、教育の善悪によって支配されないものはない。」。
とても短い条ですが深い意味を持っています。私の好きな条の一つ。幼少の頃はただ単に憧れで歩んで来ました。長じて論語を知りこの条を読み感動したことを覚えています。
人間は自分で自分を貶めてはいけません、謙譲の心は大事ですが、自分はこんなものだと学びもせずに行動もせずに諦めてしまうことはよくないのです。私たちには無限の可能性を秘めています。それは今の時代に限らずこれからの時代の人たちにもです。だからこそ自分のため努力をすることです。
類は種類のこと、例えば人の貴賤、老少、或いは気質の違い、習俗の違い、これらすべて類であります。貴いと思っている人も、賤しいと思っている人も、老人でも年少者でも、勉強ができる出来ないと考えている人も、すべて教育の善悪によって変わっていくのだと孔子は教えています。また幾つ何歳になっても学べば世間を広く豊かにすることを教えているのです。
少、壮、老の血気の勇を孔子は戒めています。少年時代はまだまだ世間を知りませんから、何でもやれるという若気の至り。経験も豊かに積んだ中年になれば、オレの言うことに間違いがないという壮年の血気の至り。老年になって自分の行動を美化し何をやっても間違いがないと己の不出来を棚上げして説教し、老醜をさらしている老年の血気です。これらすべて我の塊、固定観念
血気の至りも学ぶべば生じずるはずもなく、学べば人生に対し閉塞感もやる気も失わないのです。『言志晩録』の第60条に「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。」です。
学ばない故あの人と自分は違うのだと類を愚痴にする。学ぶ者に類などはないのです。学ぶ者には「賢を見ては等しからんことを、不賢を見ては己に省みる」なのです。いずれにしても全て周囲の人は師であるのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。