善悪同服

おはようございます。

昨夜からの強い雷雨で災害が心配です。何事もないことを祈ります。
昨日はお盆の入りご先祖様をお迎えしたことでありましょう。仏壇の脇にご先祖様をお迎えする施餓鬼棚を作るのは大切な方をお迎えするに当たり客間を新しく作るということです。先人の温かい心を思い知ります。このような風習を作ってくれたことに喜びと感謝を新たにします。
また明日は終戦の日、新たな哀しみに包まれ、不戦の誓いも新たにしなければなりません。今日の政治のふがいなさには悲しむばかりです。これも一重に「心学」の欠落からと反省しております。
昨日でオリンピックも終わりましたが、ボクシング男子ミドル級で村田諒太選手が金メダルをとりました、おめでとうございます。京都の高校の出身ということで地元紙に素晴らしいコメントが載っていましたので紹介します。
「僕に才能があって金メダルが取れたと思うし、周りにも支えられた。神様も味方してくれた。金メダルは狙っていた。目標だった。ただ、これが僕の価値じゃない。これからの人生が僕の価値になるので、恥ずかしくないように生きていく」。いかがです、とても素晴らしいコメントです。
「善悪同服(ぜんあくどうふく)」。
今日の題名は皆さんに特に胆に銘じていただきたい言葉です。この語は二宮尊徳翁(金次郎)の言ったことです。
「禍福は二つあるわけではない」というのです。元来「一つのもの」です。成功を目指し成功すれば福(さいわい)であり、失敗すれば禍(わざわい)であるのです。また身近な譬えで書けば、包丁で物を切るときは福であり、指を切れば禍であるのです。
ただ柄をとって物を切るか、指を切るのかの違いだけで、柄があって刃がなければ包丁ではなく、刃があって柄がなければ用に立たないのです。柄があり刃があって包丁となり、柄があり刃があるのが包丁の常であるのです。
物が切れれば福であり、指を切れば禍であるのです。ここで気づくべきは禍福は「私の世界だ」ということです。それを売った方が悪い云々ということを安易に口にする現代、おかしな話である、ということに気づいて欲しいと願って「心学」を行っている一つの大きな理由であり目的です。
何事も知識、学びは自己責任を教えているのです。
私の尊信する「水」も同様です。新幹線の車窓からながめる田んぼは豊かな緑となりもう稔り始めていてその美しさに感動さえ覚えます。その水を生かすのも畔があってこそです。畔を立ててこそ田んぼに水を引くことができ豊かに稔らせることができるのです、これが福であります。
畔が無ければ肥えた土や水が流れて田んぼが痩せてしまい禍となることは限りがないのです。
これも畔があるのとないとの違いだけであって、同一の水でありながら、畔があれば福となり、なければ禍となるのです。
富は人の欲するところです。己のためにするときはこれ全て禍がそれにしたがい、世のため人のためにするとき福となすのです。己のためにする人は楽を願いますから、畔を作らず、自然の力のみを頼みとして人道としての道に逆らい何もしなから禍となるのです。
世のため人のためにする人は、禍福同一を知って労を惜しまず畔を作り福を多くするのです。
財産もまた同様で蓄えて人のためにすれば福を多くし、蓄えずに見栄で出せば禍となるのが道理なのです。何も禍福は向こうからやってくるのではなく、己の身から出るものです。
ボクシングで金メダルを取った村田諒太選手も北京オリンピックには出られなかったのです。善悪同服、乗り越えたからこその金メダルです。いまこそ祈り心学を行うことでご先祖様の恩に報いるときなのかもしれません。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。