実学

おはようございます。

寺にいろいろな理由で来寺くださることはありがたいことです。心華寺は厳しい寺として聞こえています。私としてはそのように思ってはいないのですが、考えられる理由の一つとして理屈を教えないということがあるのかもしれません。朝から晩まで作務、作務、これまた作務です。それは作務が人生の基本と考えるからです。土台ができていなければ何物を上に築いていこうとしても築けないからです。
実学」。
修行とは体で体得すること、体で表現することで理屈を知ることではありません。私は太陽が昇るときに起きて沈めば休みます。これは自分が何を為すべきかを決めているからできているのです。
心華寺に来たとき、一人のお参りに来られる方もおらず、研修に来てくださる、修行に来てくださるなどはもってのほか、誰一人来ません。人様に対する用事がないからといって何もしないではおられません、何もしないなどということは人として不健康窮まりないことです。精神も肉体も、心身共に錆び付くのです。
太陽は何か目標、目的があるから、意志があるか東から昇り西に沈むのではありません、(自然の意志はあるのかもしれませんが)、何等計らいを持たなくとも自然は芽吹き、人は四季を感じ、畑を耕し、種を蒔き、草を抜き、手入れをして、収穫を得ます。
これを感じた私は自分で自分の一日の行動パターンを作り、太陽が昇るときに起き出し、水をかぶり、掃除をして、読経をして、そして又作務をしてといった具合に一人黙々と過ごしたのです。私の好きな二宮金次郎の話にこのようなものがあります。
「ある青年が二宮金次郎の高名を聴き、教えを乞いたいと願い訪ねてきたのです。そこでその青年に、
「豆という字が書けるか」と問うたのです。
当然書けますと言って、早速書いたのです。
それを縁側に持っていき、縁側に書いた文字と並べて、本物の豆を置いたのです。
そこに馬を連れてきたのです。当然馬は本物の豆を食べたことはいうまでもないでしょう。」
この話はいくら知ったとしても実学、実際に行動しなければ何にもならないぞ、という教えなのです。頭の中で、仕事が無い、無いと嘆き、社会や人を羨むのではなく、家で両親に事(つか)え、町内を清掃し、行動していれば、その行動の中から素晴らしい発想、ヒラメキが湧き出るのです。知った物を磨かず、技術を高めずして、意気込み、感情論だけではどうしようもないことを知ることです。
私も比叡山を下山して寺に人一人来ないからといって何もしないで居るなどということは、今まで何を学び何を修行してきたのかを問われているのだと感じ、先ず目の前のご本尊様のお役に立とうとお天道様が登ってから沈むまで一日を上に書いたように過ごしたのです。
仕事がないと嘆くのではなく、仕事を作らなければいけません。学ぶとは、実学でなければいけません。太陽のごとくワンパターンで磨き修練し、身近な人に尽くせば黙っていても生かしてくださる方が出現するのです。人は行動してこそ思いを実現する出会いを得るのです。
また、不遇と思われるときに己を磨くことに専心でなければ何事も叶わないものです。このような時期に不退転の覚悟を固められるようでなければ年を重ねて責任が増す困難などは乗り越えられるはずもなく、このような時期に修練してこそアイデアが年老いても涸れず、晩年に会社を危うくするなどということもないのです。
不遇なときこそ「願力を強く、思いを強くして」精進努力することです。でなければ何物かを世の中から期待され依頼され指示されたとき実力を発揮できず、実学が何たるのかもわからないのです。何人にも期待されていないときの行動、思いこそ、その人の真価ともいえるのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。