祓い清める

おはようございます。

第一日曜日、心華寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」、午前10時からです是非おまいりください。明日から新学期というお子様を持ちの方もあるのではないでしょうか、ご家族、お子様の安全をお祈りください。
心願を持って祈るわけですが、その心願がなぜ叶うのかといいますと、祈っている間に無心になる、無に帰するからです。祈りの素晴らしさがここにあります。
護摩を修するのも同じように、燃やせば形がなくなるからです。これらは何を云っているのかと申しますと、新たな芽は「無から生じる」ということです。上に何かあったら下からは芽が出ず、また出にくいのです。
「祓(はら)い清める」。
事を始めますと必ず結果がでます。大小、多少ということはあったとしてもです。結果がでますと悲喜交々、しかし何れにしても先ず大事なのは「感謝」、これがなければ繰り返しはないのです。自分の計らいからすれば「不足」はあるかもしれませんが、それは脇において謙虚に現実を受けとめることです。そして「御破算(ごはさん)」、「祓い清める」ことです。いわゆる基本、原点に立ち返ることです。
畑も稔りの多少はあったとしても稔った後はきれいに耕し直さなければ新たな種まきはできないのが道理。
祈りは、この形無き心の世界を形、行動にしたものです。大欲を持てば持つほどこの無に帰する行動が大事なのです。単なる目先の欲しか追わない人は心に余裕も無く、御破算をしないまま又始めて同じ失敗をします。
ところが祈る人は結果の多少にかかわらず感謝し、祓い、御破算しますから、生活は稔った分で守り暮らしていきますし、不足や不満を申しません、また生じないように暮らすのです、それが感謝在る暮らしです。富貴天にあり、人事を尽くし日々怠りなく歩み、結局は様々な良縁と出会うこととなるのです。
祈ることのできない人は、結果に己の心を執着していますから、己の力が一番だとばかり、視ても見ず、聴いても聞かずで、人の助言や教えなどには聴いた振りをしてはいますが、教えを実践することができないのです。それを不信の人というのです。
相談に来て進化のない人の共通は教えに従わず、自分の都合の良いように聴き、元の木阿弥となるのです。
自分がやっている、という言葉の裏には、自分は一生懸命にやったのに、なぜ人は社会は見てはくれないのだという、人を怨む意識があることに気づくべきです。自分がやって思わしくなかった結果に気づかない。改めることができない。
豊かになってゆく人は「信という畑」を常に耕し未来に対し夢と希望を果てしなく持ち、実践するためにしていることを体得しているのです。それが祈りという基本、原点に還る行為となっているのです。祈ることのできない人は考えているのではなく、悩んでいることを考えていると錯覚をしているのです。
真言を誦し祈ることで無心の快を是非味わいましょう。そう在るだけで表情、言葉遣い、行動に溌剌とした優しさと親しみを他人様は感じとるのです。また社員を責めず、人を責めない己が出現するのです。楽しくご一緒に祈りましょう。遠方の方は10時に手をお合わせください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。