一徳

おはようございます。

今夜は「にんげん学」一宮講座、一ヶ月一度です是非ご参集ください。先日も書きましたが今年の私の一年の計は「初心に返る、初心を忘れない」です。なぜそのように思ったかといいますと、65才は晩年だからです。修行という世界には終わりはありませんが、人生というものには終わりがあるからです。
「一徳(いっとく)」。
「一徳」とは一つの物事を為し為し続けることでもたらされる「利」をいいます。私は修行をすることで多くを得たのではありません、「一つのことを得た」のです。それは学び修行することで進化する喜びです。その時その時にもたらされる新発見、新たな喜び、乗り越える苦しみ、乗り越えた喜び等々筆舌につくせませんが、それらは全て「一つのことから」であります。
不器用であって良かったとも思っています。不器用であったからこそ一つのことができてきた。
今を惰性で生きてしまえば、堕落しかないのです。修行という世界が無くなれば向上心というものもなく、落ちていくだけなのです。体得するというのは体得することであり、「わかる」ことではないのです。生涯に於いて修行するのであり、わかるために修行するのではないのです。そこに「一徳」があるのです。
わかる人は簡単に自分の都合で行動します。だから水をくみ上げてあと一杯汲めば容器一杯になるのに、ならない、本人は一杯になっていると錯覚している故にそのような現実の行動が生じるのです。
一つのことを懸命にすることを無くせば人生に何の面白味もないのです。他人様と較べての上手下手ではなく、己を極めていこうとするのが「一徳」です。年を重ねて口うるさいだけの人間にだけはなりたくないものです。己の未熟さを知り、以後の人生に活かそうとする意欲盛んな人生としたいと考えた故の念頭の計です。
論語、述而第7、18条に「葉公(しょうこう)、孔子子路(しろ)に問う。子路対(しろこた)えず。子曰く、女奚(なんじな)んぞ曰(い)わざる、其(そ)の人と為(な)りや、憤(いきどお)りを発して食を忘れ、楽しんで以(もっ)て憂(うれ)いを忘れ、老(お)いの将(まさ)に至(いた)らんとするを知らざるのみと。」
意は「楚の国の附庸である葉(しよう)の君が、孔子の人物を子路に尋ねた。突然の質問でもあり、又おのが師に対する批評でもあったので、さすがの子路も答えかねた。後からその話を聞いた孔子は、子路に教えて言った、なんじは何故このように自分を説明してくれなかったのか。孔子という人物は、道を求めて未だ得ない場合には、心を奮い起こし、それに熱中して食事をも忘れるほどである。又一度その道を得ると、よろこび楽しんで、そのために一切の心配事を忘れてしまう。このように念々刻々求道の心に燃えて、年波の寄るのにも気付かずにおる、ただそれだけであると、何故言ってはくれなかったかと。」
孔子は極めて謙遜の人でありましたが、ただその求道の熱意においては、深くみずから任じていた人のようです。而してその態度の中に、又おのずから人を教える道が存したのではないでしょうか。私もこのようにいつまでも熱く在りたいものだと思うのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。