違いが

おはようございます。

連休を楽しくお過ごしになられたことでしょう。体育の日の昨日はお天気も良かったですしいろいろな楽しいイベントが各地で催されたのではないでしょうか。
しかし楽しみも腹八分がよろしいようで、何事も、もっともっととなれば苦痛となります。自然のリズムは常に強弱の繰り返しです、このことを知ったならば、過ぎたるは及ばざるがごとし、ということを自覚すべきなのでしょう。
「違いが」。
素直に道を歩もうとする人は一年ずつ成長することを知っています。ですから何事も急ぎません、急ぎませんが必ず成長するのです。素直ですからアドバイスを確かに実践します。一度くらいはジャンプ出来ますが、二度三度となると疲れ果て、それこそ後から来た人に追い越されてしまうことになるのです。
人間と一括りにして見たり、考えたりしますと、みな同じように思ってしまいますが、みな違うのです。しかしこのことを腹の底から認識しているかとなりますと?で、はなはだ難しいことであります。
「差別即平等」という教えがあります。私はこの言葉にであって人生を安心して歩めるようになりました。この言葉は、「違うからこそ平等なんだよ」という考え方を言っています。
個性はみな違うんだよとよく話をしますが、このように話をしている人に限って違いに苦しんでいる人の多いことにも気づきました。無理に納得しようと、自分と戦っているのです。
私はこの言葉を聞いたとき、へぇ〜「違って良いんだ」と妙に納得したのです。
人生は勝ちっ放しの人はいません、また負けっ放しの人もいません。そんなのあるはずがないのです。自然のリズムは強弱の繰り返しだからです。
私はこの世界に入り、修行はしましたが、階段を昇ったことはありません、いわゆる僧侶の階級を得るために学んだり、修行したりはしてこなかったということです。
お釈迦様は学校にも行きませんでしたし、階級などもありません。他人様に周囲の人に尊敬されただけです。私はこれは凄いことだと思うのです。みんな自分の目で耳で確かめて尊敬したのですから。
着ているもの(学校)や話す言葉(知識)で判断したのではないのです。知識は千差万別、知っていることもあれば知らないことも、知っている人が優れ、知らない人が劣っている、なんてことは人間という大きな世界では言えないことです。そのような理屈は小さな世界だからこそ通用することであって、部分の世界なのです。
部分が大切でないというのではなく、部分で生きようとしたとき、分相応に生きようとしたとき、威張ったり、自慢したりはしないということを言いたいのです。
だから「差別即平等」、違って当たり前という言葉が好きなのです。差別を嫌がっているのに、差別、特別視をして欲しいと考えて勉強などしていると、いつまで経っても不安と恐怖心からの解放はないのです。
そんなことを思っていた矢先に山中京都大学教授に「ノーベル生理学・医学賞」の受賞が報道されました。凄いですね、コツコツと研究を積み重ねた結果です。心より祝福致します、おめでとうございます。
今夜は「にんげん学」大阪講座、黙っていても確かに成長する学びをしましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。