見識

おはようございます。

今朝は博多、「にんげん学」京都講座有志、毎年恒例の課外授業。昨夜は博多名物「もつ鍋」(写真、もつ鍋やま中、赤坂店)、美味しい安いのお手本のような鍋物に感動、楽しい三日間になるでしょう。
今年は「オレオレ詐欺」がさらに増えているとのこと、人の情けにつけ込む悪事は絶対許せません。年金の消失問題、東日本復興資金の流用問題等々、簡単にだまされないという見識(本質)が大事です。欲に牽かれて余りにも簡単にだまされる、もちろん、だます方が悪いに決まっていますが、やはり問題です。
「見識(本質)」。
誠澄は先日11日から今年も「五穀、塩断ち」そして「懺悔練行(徒歩念仏三昧行、約15キロ)」に入っています。本人は覚悟してやっていますので何でもないように外からは見えますが、私も長年経験しましたので言えるのですが結構大変です。なぜ大変なのかといいますと、動物的本質、本能と人間思考の相反する行動だからです。
私たち人間は、誰でも皆、楽を願い、物欲が強く、好色で嫉妬深く、見栄っ張りの嘘つきで、手前勝手の権力主義者で、ありとあらゆる悪を持っています。そうでない人なんて、めったにいるものではありません。
そうした悪い心に程度の差、すなわち内なる悪心を抑えて、少しでも自分自身を向上させていこうとするならば、しっかりとした価値基準が生まれ、正しいものを見分ける目、見識を持てるようになります。
たとえ今は冬枯れて葉が落ちている木(自身)も、大地にしっかりと根を張った木(信念を持って歩む)であれば、やがて季節が巡ってくれば見事に繁り、花を咲かせ、果実をつけるのです。
また逆に、今はどれほど枝葉を繁らせ、美しい花を咲かせていても(欲の花、徒花)、その根(精神、魂)が腐りかけていたり、脆弱(欲望に翻弄されている己の心)な土地でしっかりと根を張れないような状況であったならば、やがてその木は朽ち果てます(身心の破滅)。
表面的なことに惑わされず、土に埋まって見えない部分を見ることで、本質を洞察することができるのです。
これは人も同じです。表面をいくらきれいに飾っていても、心の中が腐っていれば、それはやがて表に出て来て、腐臭を放って誰にでもわかるようになるものです。
志というものは欲望に極めて近いものです。時には欲望と志とが完全に重なり合う場合もあります。例えば、物質的な豊かさを追求するという志は、むしろ欲望そのものといってもいいかもしれません。それを欲望から分け隔てるものは、精神性以外にはないのです。志と違う欲望、それが露呈した例を挙げれば、バブル崩壊で噴き出した、政治家たちのスキャンダル。もうじき選挙がありますが、マニフェストと称して示した事柄が、確かであるか否かは近い未来を見ていれば直ぐにわかるのです、わかると分かっていても声高にいうのが、欲望と志が分かっていない政治家でもあるのです。
目先のことだけを追うのではなく、長い目で物事を見る、あるいは、一面ではなくあらゆる面を見るという姿勢を自分に向ければ、志を横道にそらすことは防げます。それが冷静な自制というものです。人物といえる人たちは例外なしに自制的なのです。
自分の内側を観るのが「行」でもあります。誠澄は12月の第一日曜日まで、精神を超えて理屈を超えて身体に染みこませるために今行じています。行は一度やったからいいというものではありません、そんな自惚れを棄てるのも行でもあるのです。
皆さんも五穀、塩断ちは無理としても、懺悔練行を随喜し自制の心を体得してください。プチ修行でも何かを得るはずです。人をいくら知ったとしても己を知らなければ見識とは出来ないのです。今日も皆様にとり素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。