学のあやうさ

おはようございます。

今朝は下関・愛宕寺での目覚め、数日いろいろな方とご一緒して楽しい夕食をいただいていたのですが昨夜は一人静かにテレビを見ながらの食事、元来一人でいるのが好きなのですが、やはり数日気のおけない方と一緒にいたせいか、何か物足りなさを感じたことも事実です。
しかしこの陰陽といいますか、明暗といいますか、昨日までとはうって変わって一人静かに食事をするのも乙なもの、友はいい、と感じるだけに大切に己を高めなければと思うのです。
私たちはいろいろな体験や経験をしながら本性に根ざし、それに基づく作道を周囲と調和させ、学習して成長する道を求めるべきです。なぜならば人は人との間、社会で生活をしていくからです。時には先を、時には後をです。
「学のあやうさ」。
他人様との調和を生み出すためには、確かに学ぶことが必要。たとえば言葉を学ばないと、誰とも話ができません。しかし学ぶだけではいけません。それでは学んだことに「拘束、しばられてしまう」からです。
論語、為政第2、15条「子曰く、学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」。
意は「先生は言われた。学んで、考えなければ、とらわれてしまう。考えるばかりで、学ばなければ、あやうい。」という意味です。
「罔」はもともと禽獣魚類をとらえる網を意味する文字であったことから、心が網に掛けられて身動きがとれない状態を表現したのです。学んでいながら、実践もせず、実践もしない故、反省も考えもする必要性が無く、ただ教えにとらわれて、がんじがらめになって身動きがとれない状態が「罔」なのです。
このような人を時折よく見受けます、学んだり、聞いたりしたことを自分の考えにして、他の人の言葉や考えや行動を相容れず、人生の未来を狭いものにして暗くして行く人です。学は、このような呪縛の契機を含んでいることを孔子は教えているのです。それゆえ、学んだことを、無反省に、一生懸命に復習したり練習したりすることを、戒めているのです。
行動の後、反省して再び学ぶことによって未来は大きく希望に満ちあふれていくのです。ここ数日ご一緒していただいた方々と同じ行動をした中で沢山のことを学ぶことが出来たことを喜んでいます。
昨夜は一人静かに反省しながらじっくりと般若湯を味わいつつ、次に他人様とご一緒するとき学べることを楽しく創造していました。己を知り、他人様を知り学んだことを生かすことで調和を図り互いの人生の歩みを楽しく進めたいものです。
学ぶとは己を高めることであり、出世や地位確保のために学ぶのではありません、人を言い負かすためでもありません。そんな心を狭くした打算の学びでは力にもならないのです。何物にもとらわれず堂々と自由に礼儀を尽くし、頭を下げるのも、何物かを得るためで下げるのではなく、他人様と己のケジメを確かにして切磋琢磨するために何のこだわりもなく下げるのです。
また真に学べばなにものにもとらわれることなどなく心が自由になってこその学であるのです。学にとらわれているようでは生かしていないという証でもあります。人生は楽しく清々しく在るべく学ぶのだと考えるのです。
今日は日曜ですので一週間の反省をしてみたら如何でしょう。今日も皆様の一日が楽しい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。