徳を積む

おはようございます。

今朝の誠澄は昨日より随分仏の世界に近づいたようです。ありがたい形相です。これからが祈りのパワーがアップされます。
今日は皆さんのお手伝いで12月2日「大根焚き」法要の大根切りを行います。切って一晩寝かせますと焚いたとき甘味が増すのです。何事でも「熟成する」ことが大事ですね。余り逸って行うことは何事も禁物です。
今月のご愛読ありがとうございます。ブログを書いて16年、初めて6日間お休みさせていただきました。復活後再び皆様に日々お読みいただき感謝いたします。これからは休むことはないとは思いますが、ご理解いただきありがとうございます。
「徳を積む」。
ブログをお休みさせていただきました数日修業時代を思い出しました。年だからとは思いたくはありませんが、やはり立派な老境であることに違いがありません。そんなことを考え参考になればと。
修業時代はとにもかくにも「無・無・無」という意識。「言われたことは黙ってやる」、そうすることで「可能性が引き出される」と信じました。それともう一つ、働けば働くほど「自分の身に徳を積む」という先人の教えに感動してのことです。仕事が身につく、動くことが苦にならないということです。
昨日も書いていますが若いときに人の道を知るには「しなければならない嫌なことでもする、してはいけないことはしない」こと。嫌なことを目の当たりにして「怠りなまけるのを得だと思うようでは先行きに迷路しか待っていない」のです。
徳を積めば天より恵みがあるのです。どのような恵みかといいますと、よく働いて誠実に事をおこないますと、「また次に頼もう」となるのです。さらに誠意を持ってよく働けば「次を紹介してくれることと成る」のです。
これに反する者は、今年は契約したから仕方がないが「来年はやめよう」ということになるのは判りきったことです。
こういった怠け心は「身に傷がつかないから」目にすることができない無智な人には気づかないのです。ところがどっこい、心に傷が残っていて確かに行動に表れるのです。「心に傷がついていることを知ること」です。自分の不誠意で仕事がダメになったにもかかわらず、心に傷がついているため「人を疑うようになる」人生を送ることになるのです。
「徳は不徳も徳である」ことを知るべきです。徳は徳であれ、不徳であれ必ず積まれていくのです。
可能性を秘めている時代、まだ開花していない時こそ無心に謹んで働くことです。このことは何も若者に限ったことではなく、幾つになっても同じ事がいえます。常に未来に向かって歩んでいるからです。
易経」に「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃(よおう)あり」と。意は「善い行いを重ねれば子孫に幸いがあり、悪いことを重ねれば子孫に不幸が来る」といっています。
このことは古今を通じて動かない真理です。決して疑ってはいけません。疑うというのは迷いです。米を蒔いて米が実り、大根を蒔いて大根が実るのはもっともなことです。年々歳々変わることがないのです。これは天然自然の道理だからです。道理を学んで素直に従う。素直に従えば道理が示している果実が実るのです。
とにもかくにも「無・無・無」無心に謹んで師の言葉を大事にして今日皆さんと出会えたのです。感謝しかありません。余慶も余殃もすぐにめぐってはきません。百日で実るものもあれば、秋に蒔いて翌年の夏に実るものもあるのです。因果にも応報にも、おそい早いがあることを忘れず、怠らないように楽しく未来を信じて歩むことです。
今月のご愛読ありがとうございます。今日も笑顔で一日お過ごしください。写真は琴音門と雷神館前の楓です。明後日おまいりの時ご覧になってください。琴音門の中央に映っています満天星の色づいた葉を映したつもり?です。
昨日は長岡京市のFさんが「大根焚き」時の臨時の食器洗い台の制作にきてくださり取り付けてくださいました。毎年お手伝いさせていただいるので毎回工夫していますという、ありがたいお言葉、多くの方のお手伝いがあって法要ができます。今日は近隣の方はもちろん九州、東京と東西から馳せ参じてくださいます。お手伝いの皆さんよろしくお願い致します。皆さんのお手伝いがご利益を一層とすることでしょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。