始末

おはようございます。

「にんげん学」一宮講座ご出席の皆さんありがとうございます。最初と最後を確かにしてこそ人生の「始末」ができ、それでこそ一年の総括ができます。「にんげん学」は当に自身の学び、一番大切なことかもしれません、大切にしてください。
慌ただしい年末ですが、お体大切にお過ごしの上よいお年をお迎えいただきますよう、ありがとうございます。新年最初の「にんげん学」講座に元気にご挨拶できることを楽しみに帰ります。新年は1月10日(木)です。
「始末」。
始末(しまつ)は終始一貫すること、私は揮毫しますときよく「○」を書きます。いわゆる「円相(えんそう)」。この○は終始一貫、始末を表しています。人生の始末は自分自身で決めなければいけません。終始一貫、始末できなければ事の完成も人としての完成もありません。
では終始一貫できないのはなぜでしょう。答えは「自分が止めた」ですね。なんだかんだと「外に言い訳を求めたとしても」結局は「自分を正当化しただけ」。これでは何を始めても終わりは永遠にこない。始末を付けられないような人間ではよろしくありません。
では終わりが永遠に来ないのなら、こういう在り方、生き様はどうでしょう。始めたら終わりを気にせず「決めたことをやり通す」という「在り方、生き方です」。要するに「人を気にしない」。気にするのは「自分がやったかどうかだけ」。人は「人に勇気を奮うことはない」のです。自分自身に勇気は奮うべきです。そのためにも「人と競争はしない」、「人と自分は別だとハッキリする」。
論語、為政第2、24条に「義を見て為(な)さざるは、勇なきなり」。意は「正しいと判っていながらやらないのは臆病者だよ。正しいことが分かっているんだったら、あくまでもやるべきだぞ」ということです。
世間に出るとついつい世間に流されてしまうということがあります。そのときに「自分に言い訳をしないのが勇気だぞ」という意味でもあります。自分のやりたいことを奮い起こすのが勇気です。
こんな孔子の言葉もあります。雍也(ようや)第6、12条「力足らざる者は中道にして廃す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり」。意は「力が足りないのなら、やるだけやって途中で倒れればよい。やりもしない前から「できません」と言うのは、自分で自分を見限っている証拠じゃないかね」ということです。中途で投げ出すような人に限って自分の言動を正当化し、誤魔化す人生を送るのです。
ほかに雍也第6、19条に「人の生くるは直し。これを罔(し)いて生きるは、幸いにして免(まぬが)るるなり」。意は「ともかく、人間は愚直なくらいまっすぐ生きるのがいちばんだよ。悪知恵によって羽ぶりをきかせている人間を見ると、うらやましく思うことがあるかもしれないが、そんな人間をうらやむことなんかありやしないよ。ああいう連中は、今のところまぐれあたりで禍(わざわい)を免れているだけなんだからね」。
「巧言令色(こうげんれいしよく)、鮮(すく)なし仁」学而(がくじ)第1、3条。意は「言葉巧(たく)みでやたら愛想のいいやつは、ろくなもんはおらんよ」。人は口べたでもいいのです。誠実なのが一番だというのが孔子のおしえ、口は禍の元。誡(いまし)めとして「利に放(よ)りて行えば、怨み多し」里仁(りじん)第4、12条。意は「利益だけを目的になりふり構わず行動していたら、人の恨みを買うのがオチだぞ」というのです。
いかがですか、少しは自分に正直になって愚直に終始一貫していこうという思いを強くできましたでしょうか。始末できるために、もう一つ提案、一日を一日で終えるようなスケジュールを立て、一日でケリをつけることです。そうして自分の事ばかり考えないということが大事、そうすることで始末できる、終始一貫できるあなたとなること受け合いです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は昨日知人にいただき初めて味わうチョコレート、「きなこ餅入り」不思議な美味しい味でした。