怒りは

おはようございます。

論語に「之を知る者は之を好む者に如(し)かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」とあります。まったくそのとおりであります。知るということは普通の頭さえあれば実に簡単であり、できることです。
好むというふうになりますと、これは言い換えますと身になるといっていいでしょう。つまり対象を自分の身にする、自分の情緒の中に入れることです。
これがもう一つ深く、「楽しむ」という境地になりますと、初めて物と我と渾然一体、融合するのです。ここまでくれば生涯楽しく歩める。利とか名誉などというつまらないことを考えずに、道と一体となり悠々とすごせる。こうなりたいものです。
「怒りは身を滅ぼす」。
怒りは自身を傷つけ、多くの人を傷つけ、一番は身近な人を傷つける。また人間としての進化を止めてしまい、楽しい人生と願ったにもかかわらず、そうなれない。これは三毒の煩悩に犯されているからと考えられます。お経をお唱えする最初に唱えるのが「懺悔文(さんげもん)」です。貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)の三つを「三毒」といいます。自身を犯す毒に三つあるのです。
私たちは意識するとしないとにかかわらずこの三毒を犯しているのだという考えから懺悔文をお唱えすることで懺悔し、新たな出会いの中で三毒に犯されないようにするのです。貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)(愚かさ)とは。
1、 貪(むさぼ)りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。
2、 瞋(いか)りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。
1 、愚(おろ)かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないことを知らないことである。
これが三毒です。この三つはある時瞬間にわき出る危険性が常にあります。今まで楽しく友だちと話をしていたにもかかわらず、突然怒り出した、などという話は世間には良く聞く話です。
それらは皆一様に上の三つの正しくない考えから起きるものです。人様が自分の持っていない物を持っていたり、また同じように歩んでいると思っていたのが先に出世をしたり、手に入れたり、良い取引会社との出会いができたり、何か悪い事柄が生じた時に人のせいにしたり、ねたんだり等々。
論語、衞霊公第15、20条に「子曰わく、君子は諸(これ)を己に求む。小人は諸を人に求む。」。
意は「孔子言う、君子は何事も自分に求め、自分に責めるが、小人はこれに反して、何事も人に求め、人に責める。そこに君子と小人の別がある。」。
三毒に犯されない人は、己の過誤を責めることは厚くするが、人の過誤を責めることは薄いのです。小人は三毒に犯されていますので、これに反対となるのです。
また懺悔して同じ過ちを繰り返さないでおこうと誓った者は、「事を行う場合に、自分みずからそれだけの実力があるかないかを内省しているが」、小人は「自分の能力の有無を省みず、人の己を買ってくれることを要求していく」のであります。これみな人に求め、己に求める別であります。
懺悔文を唱え修練を続けていきますと、仕事でも、プライベートでも、問題が発生したときには、その問題から逃げるのではなく、きちんと向き合うという姿勢を持つ責任有る人格を形成していくのです。
三毒に犯されている人は、他人にその責任を押し付けてしらんぷり、という事を繰り返すようになり、一層三毒に犯されるようになり、自身を不幸にし、身近な人をも不幸に巻き込むようになるのです。三毒の煩悩、怒りほど恐いものはありません。怒ることのないよう日々祈り、学ぶべきです。「成らぬ堪忍するが堪忍」、「成らぬ」は「できない」という意味で(もともと堪忍できることを堪忍するのは誰にでもできることで)、「こればかりは堪忍できない」と思うようなことを堪忍するのが本当の堪忍なのです。
この堪忍ができるようになるのも懺悔文を日々唱える故であります。因みに懺悔文を書いておきます。
我昔所造諸悪業(がしやくしよぞうしよあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゆうしんごいししよしよう)
一切我今皆懺悔(いつさいがこんかいさんげ)。朝に心静かにこの懺悔文を唱えるだけで人様との交際が良好となり、謙虚で寛容な人間性を醸し出します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は昨日出先で咲いていた侘助、そして神戸の信者さんに交通安全のために依頼しました手作りのわらじ、Kさんご夫妻ありがとうございます。