価値にとらわれない

おはようございます。

年一度来ています奥琵琶湖、尾上温泉(滋賀県長浜市湖北町尾上)におります。静かで落ちついた温泉。宿が二軒しかありませんし、そんなに多く泊まれませんので落ちついて過ごせるのがいい。周りは自然だけ、目の前は琵琶湖、視界が広がっているというのも落ちつけてなかなかよろしいものです。
近くに野鳥観察センターがあるのもいいですね、鳥に格別興味があるというのではありませんが、静かで何もない所に来ていますと、自然と自然に目がいくようです、その自然さが良いのかも知れません。
「価値にとらわれない」。
老子、2条に「美の美たるを知るも、斯(こ)れ悪のみ。みな善の善たるを知るも、斯れ不善のみ。故(まこと)に有と無と相い生じ、難と易(い)と相い交わり、長と短と相い形(あら)われ、高(こう)と下(げ)と相い傾き、音(おん)と声(せい)と相い和し、前(ぜん)と後(ご)と相い随(したが)う。」。
意は「だれでも美しいものを美しいとわきまえているが、実はそれは醜いものなのだ。だれでも善いことを善いとしてわきまえているが、実はそれは善くないことなのだ。世間でいう善とか美とかいうものは、みな確かなものではなく、それにとらわれるのはまちがっている。
まこと、有ると無いとは、たがいに有るが無いを、無いが有るを相手としてこそ生まれており、難しさと易しさとも、たがいに相手があってこそ成りたち、長いと短いとも、たがいに相手があることによってはっきりし、高いと低いとも、たがいに相手があることによって傾斜ができ、楽器の音色と人の肉声とは、たがいに相手があることで調和しあい、前と後とも、たがいに相手によって順序づけられている。
世間のものごとはすべて相対的で依存しあった関係にあるのだ。」。
老子のこの考え方が自然をみているとひしひしと感じてきます。価値観にとらわれて物事を相対的に見て狭い視野になり、視野狭窄に陥っていることを空と琵琶湖を前に、自由に飛び回る鳥たちを見て己の卑屈さと、頼りのない狭く小さな価値観で生きている薄っぺらさを知ったようです。
相対であるからこそ確かに観て感謝し、相和すべきだということです。ところが相対することで心気を乱し、迷いを起こしている。
また老子は「信言は美ならず、美言は信ならず」とも「真実味のあることばは飾り気がない、飾り気のある言葉は真実味がない」。ぐさっとくる言葉です。しかし実際問題として、信言と美言を聞き分けるのは至難であり容易ではありません。
たとえば、美言の代表に「お世辞」があります。歯の浮くようなお世辞とか見えすいたお世辞、これはもう誰にでもわかりますが、しかし、もっと巧妙なお世辞になりますと、ついついその気になってしまいます。
しかし、お世辞は実害が少ないですから、まだいいのですが、問題は甘いことばにまどわされるケースです。身ぐるみはがされてしまうこともなくはないのです。自然を目の前にして反省を多くしています。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。