知る楽しみ

おはようございます。

阪神淡路大震災から昨日で18年でした。今でも少しの揺れでもドキッとします。宇治に住んでいる私でさえそうですから、被災された皆様の悲しみはいかばかりのことでしょう。ただただお見舞いと、ご冥福をお祈り致します。天災だからこそ二度と起きて欲しくないものです。
今朝は時折ちらちらとしており、北風も寒い朝です、足の指先が少し凍えますがまだしのげます。私の日課はお茶、お水、お酒を御仏にお供えすることから始まります。お供えを終えて書き込みです。一日の始まりが一番好きです。一年も始まりがあるから歩を進めることができ、何事も始まりは大事です。そして一日を「これで終わる」というケジメが更に大事です。この始終、終始があってこそ「一日、一年」の意義があるといっても過言ではありません。
何事も因果の繰り返し、因があり果がある、果があり因がある。この道理から外れるものは何一つありません。この因果の事実がわかってきますと学ぶことの意義がわかってくるのです。
「知る楽しみ」。
礼記(らいき)に「学びて然(しか)る後に足(た)らざるを知り、教えて然る後に困(くる)しむを知る。」。とあります。
「学びて然(しか)る後に足(た)らざるを知り」は、学ぶことによって「自分に不足しているものがわかってくる」。ということであり、学ぶことには終局がないことを教えています。
「教えて然る後に困(くる)しむを知る」は、教える立場に立った人でないと理解できないかも知れませんが(誰しも後輩ができますから教える立場には立つものです)、ふつう、人から学ぶよりも、人に教えるほうが二倍も三倍もの労力を必要とするのです。人様に対してまちがったことを教えるわけにはいきませんから、時間をかけて勉強もし、準備もする。それでも十分だということはありえないのです。たえず自分の「未熟さを思い知らされる羽目になる」のです。
それが礼記のいっている「困しみ」に他なりません。だから、その「困しみ」をバネにして、いっそう勉強に励むことになるのです。
このことばは、「足らざるを知る」ことも「困しみを知る」ことも、自分を「向上させる動機である」ことを教えているのです。
日々同じ事の繰り返しをしながら決して同じ状態ではありません。同じ事から己を深め意識を高めていくのです。また、そのことを知っている故に日々己を知ることができ、また困しみ楽しんでもいるのです。昨日も書いていますが行動なく実学なくしては何も得ることはないのです。
はてさて今日はどのような困しみと楽しみが待っているのでしょうか?、それが楽しみです。今日も皆様にとり素晴らしい一日でありますことをお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
昨日出先で珍しい実なのか花なのか?わかりませんでしたが撮ってきました?。ご存知の方は教えてください。