過ちは恐れない

おはようございます。

毎日の読経お勤めは経本を見ながらお唱えします、それでも間違うときがあります。最初に師から読経方法を教えていただいたとき、お経は暗記するくらいお唱えしても「空で読んではいけない、暗記してはいけない」と教えられました。最初なんでそんなことをいうのかなぁ〜と思っていましたが、人間は「ど忘れする、間違える」からだと後に気づかされました。
そして最もいけないのが「固定観念となり融通の利かない頭になる」ことです。人様にアドバイスをするときこれが最もよろしくない、対機説法といかなくなる危険性があるのです。相手を見ず押しつけの指導をしてしまうようでは何をか言わんやです。
「過ちは恐れない」。
論語、衞霊公(えいれいこう)第15、29条「子曰わく、過(あやま)ちて改めざる、これを過ちという。」。
意は「孔子言う、人には、何人と雖(いえど)も過ちのない者はないが、それを過ちと気付いて改めて行くことに依って、結局過ちなき姿にもどるのである。然(しか)るに過ちを犯しながら、その犯した過ちを改めないでおれば、それが真の過ちになるのであるから、これを過ちというのである。」。
うぅぅ〜ぅんとうなってしまうか、ドキッとしませんか皆さん、過ちを犯して改めておられますか?、一過性のこととして済ませておりませんか?、これも昨日書きました「傲(ごう)」の一つです。
過ちを犯すことは誰にでもある事です。でも過ちを犯した事に自分で気づいていながらも、その過ちを改めようとしない、これを本当の過ちということを知るべきです。
過ちを自分で認めることは勇気がいります。人から指摘されますと、その言葉に反発して、過ちを正すことが「無様(ぶざま)だと」考え、ここで更に又過ちを重ねることになるのです。
人間は誰でも過ちを犯すものと、誰もが知っています。ただ過ちを認めないために、ますます悪い方向に陥っていくという、「負のスパイラルに陥る」のです。
過ちに気づけば、なるべく早く改めるのが最良の道です。孔子はこうも言っています「過ちては則ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」と。意は「過ちがあれば改めることに躊躇(ちゆうちよ)をするな」です。
過ちを犯したからといって落ち込む必要はありません、しかし、その「過ちを認めなければいけません」。そして過ちを改めることは格好が悪いことでも恐れることでもありません、「生き方の王道」であり、過ちを正すことは「自分の成長につながる」からです。
新しい週です今日も真っ直ぐに人生と対峙して過てば直ぐ正す楽しい一日としましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は日々読誦します経本と中身、他にも護摩記(護摩を修すときに用いる行記)、水子供養のため地蔵経をお唱えしています。