祈ることで

おはようございます。

今日は愛宕寺「初・月例幸福開運護摩祈願祭」午前10時からです、どうぞおまいりください。そしてご一緒に世界平和をお祈りしましょう。今年初めての法要、やはり人情として賑々しくお集まりいただければ幸福せです。
私たちの身の上というものは、満足できる状態もあり、満足できない状態もあります。ですから、どうして「自分ひとりだけいつも満足できる状態を望むことなどできようがない」のです。
また、自分の心情の動きというものは、平穏な状態もあり、乱れる状態もあります。ですから、どうして「人様にだけいつも平穏な状態でいることも望めるはずもない」のです。
上の如く、斉(心をととのえること)・順と不斉・不順の双方があることをよく私たちは理解しなければいけません、自分自身の迷いを正すということも、人生における真実の生き方でもあるのです。何事も都合の良いふうにはいかないのです。このことを知っただけでも争いは起きないはずです。自分の心さえ自分の思い通りにはならないのです。ましてや人様の心は・・・・?なのです。だからこそ信じ祈ることです。
「祈ることで」。
私は今でも心が千々に乱れます。そのようなとき日々祈りがあることで救われています。人はどうしようもないことを悩むものです。どうしようもないからこそ悩むのかも知れません。
人間は、ほんの少しの欲ばりの心が生じただけでも、強い心もおとろえて弱くなり、澄んだ知恵もおさえられて鈍くなり、恩情も変わって残酷な心になり、潔白な心も悪にそまって汚れてしまい、その人の一生の風格をすっかり台なしにしてしまうことになりかねないのです。
だから、欲ばらないということを宝とし、祈りを宝とし大切にしています。これは、やはり諦観とでもいうのでしょうか、良い意味での開き直り、正しい諦めが祈ることでできるのです。祈りは時間を要するのもいい、時が癒してくれるということはよくあるのです。祈りの言葉は良い意味で広く曖昧で何時読んでも自分にピッタリと寄り添い救ってくださるのです。
そうすることで再び真っ直ぐに人生に対峙することができております。このことは何度も何度もです。祈りを知ってよかった、真実の言葉を知って良かったと、その折々に思うのです。
祈ることで己を見失わずにいることができるおかげで、今までの人生を放棄することなく再び積みあげていくチャンスができているのだと感謝するのです。そして皆様と出会えました。昨日おまいりにこられましたTさんが、ご本尊様の前に「坐るだけでありがたくなるのです」と話されたことが心にしみいりました、このような言葉を聞く幸せもあるのが祈りでもあるのです。
祈ることで心を清らかにすればこそ、迷いが消え、我欲が消え去り、教えを自分の在り方にでき、善行とでき、大きなご利益につながっていきます。
今日は今年初めてご一緒できる祈り。是非ご一緒に祈り、心を清らかにし、御仏の教えを我が善行とし、大いなるご利益をお受けしましょう。お待ちしております、午前10時からです。皆様の御心と頭にご神仏のお加護がありますよう、そして素晴らしい一日となりますようお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は下関発仙崎行きの「みすゞ潮騒号」かわいい車両です。「金子みすゞ」の素直な詩がいい、こんな風に素直にならなければいけません。