ことある毎に

おはようございます。

「にんげん学」小倉初講座ご出席の皆さんありがとうございます。本年もどうぞ予定を確かにしてご一緒に学んでください。論語20巻を昨日で読破しました、これからが真の学び、いかに行動するかです。
学而(がくじ)第1、1条「子曰(しいわ)く、学びて時に之(これ)を習(なら)う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからず乎(や)。朋有(ともあ)り遠方より来る、亦た楽しからず乎。人知(ひとし)らずして慍(いか)らず。亦た君子ならず乎。」
論語冒頭の語であり、勇気が湧いてくる条です。意は「孔子言う、学問をして、その学んだところを機会ある毎に復習し練習して行くと、学んだところがおのずから真の知識として我が身に体得されて来る。これはまたなんと愉快なことではなかろうか。このようにして修養を積むと自然、共鳴者、又は同志の者が出来て、遠い所からまで慕い訪ねて来るようになるであろう。これはまたなんと楽しいことではなかろうか。又自己の学習により友との切磋によって磨かれる学問は、終いには真の徳操となって、分に安んじ命に立つ所まで進まなければならない。この境地に至れば、すでに世の毀誉褒貶(きよほうへん)は問うところではない。たとい世人が自分の学徳を認めてくれなくとも、これを怨(うら)まず尤(とが)めず、平然として世に処することが出来るであろう。この点まで進み得た人であれば、これこそ真の修養の出来た君子人というべきではなかろうか。」。いかがです、夢がわいてきて誇り高く歩めます。
「ことある毎に」。
自己の学習が出来上がれば、必ず志を同じくする同志は来たり集まるものであることが説かれています。この一語愉快ではないですか同志が出来る、学ぶ勇気と夢がふつふつと湧き生き様の基軸、芯がぶれなくなります。
しかし人生は必ずしも順路のみとは限りません、いかに自己の修養が出来ても、世の人がこれを認めず、或いは誤解し、甚だしきは曲解する場合もあります。このような場合に処してもなお且つ自己の徳操を信じ、分に安んじ命に立つところがなければならないというのです。己を制する心が大事だというのです、理性を確かにしてこそ学びです。
これを孔子の一生について見てみますと、孔子は生まれながらにして知ると言われるほどの聖人ではありました。それでもなおかつ十有五にして学に志し、常に学んで厭(いと)わざる努力を続けたのです。これが孔子の学習でありました。孔子自ら言っているが如く「人、一たびしてこれを能(よ)くすれば、己これを百たびす」という努力家だったのです。私自身を振り返りますと恥じ入るばかりです。(孔子と比較すること自体が自惚れではありますが)。
その結果、多くの門人も集まり同志も得。人の推(お)すところとなって魯国(ろこく)の君に用いられ、その経綸(けいりん)を行ったこともあります。これが孔子の朋有でありました。
しかし又、君に疎(うと)んぜられ、位を失ったこともあり、天下周遊の途次には、生命の危険にさらされたことも一再ではありませんでした。かかる逆境においても、孔子は常に分に安んじ命に立ち、われ五十にして天命を知る(為政(いせい))ことを悟ったのです。これが孔子の人知らずして慍(いか)らざる徳操(とくそう)であったのです。
こうして七十余年の生涯を通じて、孔子論語開巻第一の教訓を自己の一身において実現しました。この変わらざる態度に感動を覚えます。なお上述の命を知ることが、学問終極の目的であり、且つにんげん修養の極致であるとされていますが、論語の最後の章(堯曰(ぎょうえつ))に、「命を知らざれば以て君子為(た)ることなし」とあり、ここに論語編纂(へんさん)における首尾一貫の態度を見ることが出来るとする人もあります。
自分の人生を首尾一貫して歩むことは至難の業でありますが、首尾一貫できないが故に悟りも出来ず、迷いばかりの人生と化していくことを私たちは知るべきです。人生様々な試練のあることを思えば生涯を通して貫く命、矜持を持たなければいけないのではないかと論語20巻を読み終え、そして新年一月の「にんげん学」講座の締めとして小倉講座を終え深く感じた所です。ことある毎に今年も共に心学を修めてまいりましょう。本日も喜びの多い一日でありますようお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は愛宕寺の信者さんであり皇室御用達「阿王雪(あわゆき)」で高名な老舗菓子司「松琴堂」さんの生菓子、勉強会にご主席の皆さんへと頂戴しました、美味しくいただきました、ありがとうございます。
それと「お多幸」さんの今年初のお料理、ごちそうさまでした。今年も相変わらず美味しくいただきました。マスター今年もよろしくお願い致します。