自分を

おはようございます。

新年1月も今日で終わります。つい昨日お正月を迎えたと思いましたが、1月の晦日、今年も毎月が早い、この一言です。新年に入り毎日お読みいただきありがとうございます。
また昨年末から年始に25年度の年間のご祈祷、ご回向、ご献膳、ご奉米、ご献酒等々をいただきありがとうございます。月々のご祈願ご回向を怠りなく厳修し本年度の各家のご安泰をお祈りいたします。
初心忘るべからず、私の一年の計「基本に忠実」です、基本に立ち返り孔子ではありませんが寝食を忘れるくらいに己を高めたいと考えています。祈り学び修練は心気に充実をもたらし怠惰な心を生まない、日々新たな気づきがあるのが嬉しい事です。
「自分を高める喜び」。
論語、憲問(けんもん)第14、25条「子曰く、古(いにしえ)の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。」。
意は「孔子言う、いにしえの学者は己の修養のために学問したが、今の学者は人に知られるために学問をしている。」。
勉強は何のためにするものなのでしょうか、それは自分自身を高めるために、自分のためにするものなのです。またその勉強で得た知識を世の中に役立てるために使うことが正しい道なのです。
しかし人は新しい知識を得ると、つい自慢気にそれを他人に話したくなります。そして、その話がウケて、ちやほやされてしまうと、名声を得るための知識しか学ぼうとしなくなってしまいます。そして名声を得るための知識を知った時点で学ぶ事を終えてしまうことになります。これでは、自分を高めるために勉強するという本来の目的とは違ったものになってしまうのです。
時おり世間の耳目を集める、功利主義の似非学者や何も学者に限らず高言を吐く人は多勢います。そのような人の末路は寂しく哀れなものです。ここでは学者という表現をしておりますが、学ぶ者という広い意味でとらえることがいいでしょう。
学んだ所のものを身に実行していくのは己の為にする学問修養です。自分を高めておけばいざという時に対応できるのが凄いのです。大事に驚かない、気が動転しないのです。勉強してるときや修行しているときなど時おり、この知識や修練はいつ役に立つんだろうと考えてしまうときがあります。確かに、すぐには役に立たない知識、修練かもしれません。しかし、長い人生の中で学んだ知識や修練が役に立つときは必ずやってくるのです。
人の為にするような功利主義学問であっては、ビクビクオドオドした人間関係しか出来ず、受けいれてもらえなければ人を嫌うようになり、いつもオロオロオタオタしてしまう人生としてしまうのです。
論語、子罕(しかん)第9、28条に「子曰く、歳寒(としさむ)くして、然(しか)る後に松柏(しようはく)の凋(しぼ)むに後(おく)るるを知る。」。
意は「孔子言う、寒いときになって初めて、松や柏が他の草木の枯れしぼむ中に、依然として緑の色のままで残っていることがわかる。」。
この条は何か世間に一大事があって初めて平素積み重ねる修養の本領が現れることを述べているのです。家、会社、国でもかならず「いざというときが来る(不況や非常事態、天災)」ものです。今日そのようないざというときの人材がいない、見当たらないのが国の混迷を深めていますし、悲劇といってもよいでしょう。それは自分の為に学びをしていない人が多いことにあります。
自分を高めておけば、いざという時に自然と対応ができるようになるものです。またリーダー、エリート、人としての使命である、困難が生じた時率先して困難に赴く人間性を養うのです。「人の苦を我が苦と思う、人が楽しみて後に楽しむ」という、己を高め学んだところを身に実行することが真のリーダーですし、人としての使命だと考えています。
東京、岡山に後楽園、水戸に偕楽園という名の公園があります、これらはこの考えから出て名づけられたのです。一人でも多くの方が「お先にどうぞ」という謙譲の精神であって欲しいと願っています。「大学」に「一人譲なれば万人譲る」とあるように、興譲館という学校もあります。
自分の為に学んでこそ人様のお役に立てることをしっかりと認識して新年1月を締めくくりましょう。今月のご愛読ありがとうございます。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。