自然の中

おはようございます。

「にんげん学」大阪講座ご出席の皆さんありがとうございます。嬉しいですね、大阪講座に限らずご一緒くださる皆さんがいる、この事実がとてつもなく嬉しい。
私は人に頼ることが好きです(頼ると言いましても物理的、本質的なことでなく、思い、心の中でという意味)、そして頼られることも、末っ子で育ったからかも知れません。頼られたり頼ったりされますと、凄く嬉しいのです。この気持ちは喩えようがありません。その年になって何を言っているのだと思われるかもしれませんが、本当にそうなのです。
頼り頼られるためにもやはり素直が一番です。夢は語っても「できないことは言わない」、「高言、大言は己を傷つけ、人様を傷つける」だから、よろしくない、「思わせぶりな言葉は言わない」こと、これは人間的にも最悪です。
「自然の中で」。
明後日、師にお会いします。電話が来ますと一瞬のうちに修業、小僧時代にかえるのが自分でも可笑しくなり、しかしそれを楽しんでいる自分も。
自分が発心し比叡山にいきました。にもかかわらず指示命令されることが嫌でした、嫌だという気持ちが生まれたのは何ヶ月か経ち生活に慣れきてからのこと。最初は何でも素直に言うことを聞こうと謙虚な気持ちでした。それが何時しか変わった、言葉では真心、忠信、信実などは知ってはいましたが、いつしか初心を忘れてしまったのです。
毎日毎日同じ作務(さむ)の繰り返し、掃除、薪割り、師に仕え、兄弟子に仕える繰り返し。修行はこんなものかと分かった風な思いとなり、現実を甘く見て、なめてしまったのです。掘り下げ深めることを知らず気づかず、知るだけであったのです。それから精神の堕落が始まったことにも気づきませんでした。今では繰り返すことがあることに感謝しておりますが、修業時代はこれが嫌で嫌でたまらない時期があったのです。いつしか覇気もなく惰性で繰り返す生活。目の前の人も何もかも美しくない。心が汚れてしまっていた。
しかしあるとき気づかされました。何に気づかされたのかと申しますと、「自然の運行」の凄さにです。自然の運行、自然は何も云いませんが万物を化育生成しているのです。
「やらされて嫌々やっている」掃除や作務でも「美しくなる、人様のお役に立っている」ということに「気づかされた」のです。それまでは「やらされている」という思いで作務をやっていました。「見て見ず」という、心の無い状態、心が死んだ状態です。
「心、ここに在らざれば死人に同じ」という言葉があり、まさに当時は死人と同じ状態。掃除をすれば「キレイになる」ということに気づいたときから何かが変わったようです。それから率先して何事も取り組むようになりました。
自分の意志で修行に来ていたにもかかわらず、基礎の世界に主体性を持つことができなかった、作務を通して、自然の営み、繰り返す中で生成化育するということに気づかされたのです。初めて主体性が何たるかを知らされ能動的に動くようになって後多くの人にチャンスをいただくようになったようです。
やらされていると考えている時は「終わることばかりを考え」。その結果はさんざんな物であったことは言うまでもありません、「そう、美しくなかった、掃除以上に自分の心が」、因果応報です。自然は我意を持たないからこそ正直に結果を目の当たりに示してくださるのです。己のやったことを。
そこにこそ私は気づかされたのです、人の歓心を買うような意識だったから「キレイになることに気づかなかったのだ」と。掃除をすれば美しくなるという事実を徹底せよと自然が教えてくれたような気持ちになったのです。生涯自分の為すべき事を知ったようにも思いました。
この気づきから人様を客観的に拝見していますと、やはり物事に取り組む姿勢如何でその後の人生に於けるチャンスの巡り合わせが大いに違っているようです。どのように違ってくるかは凡そ想像がつくのではないでしょうか。今日も皆様にとり素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は参加者のKさんが皆さんのためにと作ってくださるサンドイッチと伊丹「寶樹庵」さんのきんつば、大福そして極めつけ、八幡浜一生園さんとコラボで完成した「ミカン大福」です。