洗う

おはようございます。

昨日久しぶりに師匠にお話をいただき一日を過ごし、ああ、もっともっと孝行をしなければとごちそうになった般若湯が心地良く体をめぐるそんな思いの中電車にゆられ帰ってきました。師の元を離れ35年を過ぎても小僧時代が懐かしくもあり、嬉しく思い起こされます。厳しかったこと辛かったことが何も思い出せないのです。楽しい思いでばかり、逃げだそうと考えたこともあったのに、なぜなのでしょう不思議な事です。
「洗う」。
師は何か私が間違いを起こしたとき徹底的に叱ってくださいました。「過ちと知ったならすぐに改め、悪いと思ったらすぐに去れ、手に汚い物がついたなら洗うのが常だ」と。
お陰様で無一物の私が少しでも何かができる気構え、心構え、そして事に対処することを身につけ、本能のごとくになったようにも感じます。曲がりなりにも今日在ることができるのは、怒髪天を衝く如く徹底的に叱ってくださり、脇道にそれないようにして下されたからだと感謝しています。
論語、衞霊公第15、1条の中程から書きますが「陳(ちん)に在りて糧を絶つ、従者病みて、能(よ)く興(た)つこと莫(な)し。子路慍(しろいか)り見(まみ)えて曰く、君子も亦窮(きゆう)すること有るか。子曰く、君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す。」。
意は「陳国が戦乱時孔子と弟子が遊説中に食料が欠乏し、孔子の供をしている者達(恐らく全部、門人であろう)は病み疲れ果てて、起ち上がることもできない。子路はこの状態に心苛立(こころいらだ)つまま孔子に向かって、道を行う君子にも困窮することがありますか。これでは天道の是非が疑われます、と詰め寄った。これに対して孔子は、道を行う君子ももちろん困窮することはある。それは別に怪しむには足りない。ただ小人は困窮すると、必ずいい加減な、したい放題のことをするが、君子にはそういうところはない、と言って、子路のいらだった心を静めると共に、これを諭(さと)した。」。
私たちは何か困窮や過ち、自分の思いのままになりませんと己を濫(みだ)し、道理にないことをやってしまい、どんどん本質から離れ道から外れてしまうのです。同じ衞霊公30条に「過ちて改めざる、これを過ちという。」とあります。
誰しも叱られたり怒られるのは良い気持ちではありません。しかし過ちを認めるのは「成長のチャンス」でもあります。久しぶり長時間師のお供をし感謝の思いと叱られた時の心のしびれを思いださせていただきました。いつまでも、いつでも師匠はありがたいものです。朝師の本にお邪魔した時は比叡の麓はみぞれでした、ああこのみぞれは私に何を与えようとしているのだろうと天を仰ぎ玄関を開け、良い一日を過ごました。
今日から一泊二日CMAさん主催「管理職研修」が開催されます。研修生の皆さんにもいろいろな場面から気づいていただければとお話ししたいと考えています。お気を付けて入山ください。
今日も素晴らしい一日でありますようお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は比叡山麓の師匠の寺の近くにあります上は天海大僧正が創建の慈眼堂と下は天台座主猊下の麓のお住まい滋賀院門跡。